「おんな城主」福岡にも 立花誾千代の生涯たどる 成功、挫折…波瀾万丈 [福岡県]

誾千代像(良清寺蔵)
誾千代像(良清寺蔵)
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地元の人が「ぼたもちさん」と呼ぶ誾千代の墓所を見上げる金子俊彦さん=熊本県長洲町
地元の人が「ぼたもちさん」と呼ぶ誾千代の墓所を見上げる金子俊彦さん=熊本県長洲町
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 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で乱世を生き抜いた女性リーダーに光が当たる中、戦国時代、福岡県にも「おんな城主」がいたことをご存じだろうか。数えの7歳で立花城主となり、その後、柳川藩主の妻となった立花誾千代(ぎんちよ)である。どんな女性で、どんな運命をたどったのか。探ってみた。

 誾千代は1569年、戦国大名・大友宗麟の重臣、戸次(べっき)(立花)道雪の一人娘として、今の福岡県久留米市に生まれた。道雪には男子がいなかったため、誾千代は75年、福岡市東区、新宮町、久山町にまたがる立花山にあった立花城の城主となった。立花家史料館(柳川市)の植野かおり館長(55)によると、誾千代については城主になることを許した宗麟の朱印状が残っているという。「一級の歴史文書で、女性が城主だったことが裏付けられているのは誾千代だけ。女性の大半が『だれだれの女』としか記されなかった戦国の世に、すごい人です」

 ただ、城を守るのに女性の力だけでは心細い。道雪は、同じ大友氏重臣の高橋紹運(じょううん)の長男、宗茂を婿にもらうことにした。82年、2人は結婚。宗茂が立花城主、誾千代は正室となる。そこから宗茂は、豊臣秀吉の九州平定で貢献、87年に柳川藩初代藩主に抜てきされる。誾千代は大名の妻に上り詰めた。

 ここまでは成功物語だが、やがて誾千代の運命は変遷していく。柳川郷土研究会の金子俊彦事務局長(75)と、ゆかりの地を巡りながら、たどってみる。

 誾千代には子がなく、宗茂は側室を取った。夫婦は柳川で別居生活を送るようになり、夫婦の不仲を指摘した史料も残る。「柳川の人は誾千代を、住んでいた館のあった地名から『宮永様』と呼びます」と金子さん。柳川市上宮永町の宮永様居館跡には碑がぽつんとあるだけで、往時の面影はうかがい知れない。当時は有明海のすぐそばだったこの地で、誾千代は何を思い、暮らしたのか。

 そして1600年、関ケ原の合戦が起きる。敗れた西軍についた宗茂は、領地を召し上げられた。誾千代は02年、今の熊本県長洲町腹赤(はらか)の農家で体を病み、数えの34歳で一生を終える。

 長洲町を訪ねると、誾千代が亡くなったとされる場所に墓所があった。塔をぺちゃっとつぶしたような形から、地元では「ぼたもちさん」と呼ばれ親しまれているそうだ。「今でも地元の人が年に1度、供養祭を開いてくれて、ありがたいことです」と金子さん。

 さて、誾千代はどんな女性だったのだろう。残された肖像画からは、美しく聡明(そうめい)そうな女性に映る。甲冑(かっちゅう)を着て鉄砲隊を采配する勇猛な女性だった、といった逸話も残るが、真偽のほどは定かではない。

 何よりの疑問は、夫とは本当に不仲だったのか-。「その答えを示すお寺に行きましょう」。金子さんに伴われ、1621年に建立された良清寺(柳川市西魚屋町)へ向かう。

 浪人の身となった宗茂は苦労の末、関ケ原の戦いから20年後、柳川藩主に復活する。手掛けたのが、誾千代を弔う良清寺の建立だった。さらには34年、誾千代の三十三回忌には、長洲町から改葬して墓も建てた。

 寺の敷地の一番奥で、誾千代の墓はみずみずしい緑に包まれていた。墓のそばには、かつて掘割につながっていた池が残り、柳川城から舟で墓参に来ることができたという。

 成功と挫折…。波瀾(はらん)万丈の誾千代の生涯を墓前で振り返っていると、金子さんがほほ笑みながら語った。「妻のためにお寺まで造る。それこそ最高の愛情表現じゃないですか」

=2017/04/21付 西日本新聞朝刊=

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