西日本新聞電子版サービス

炭鉱住宅 「生活」「連帯の歓び」の中心 特集・おかえり信介しゃん(3) [福岡県]

炭鉱住宅の共同水くみ場で遊ぶ子どもたち=昭和30年代(橋本正勝さん提供)
炭鉱住宅の共同水くみ場で遊ぶ子どもたち=昭和30年代(橋本正勝さん提供)
写真を見る

 「小さなマッチ箱を並べたような長屋が目の下に見え、黒の着物を着た男たちが、のろのろと動き回っているのだった」(五木寛之「青春の門」より)

 たんじゅう、炭住、炭鉱住宅…。1年半前、筑豊総局に赴任する前は聞いたことがない言葉だった。筑豊篇には、田川の炭住がしばしば登場する。父重蔵を亡くした信介が義母タエと過ごした炭住はどんな暮らしぶりだったのだろうか。

 福岡県田川市のピーク時(1957年)の人口は約10万2千人。市内に約6130戸の炭住があった。中元寺川近くの三井田川鉱業所松原炭住は、約千戸が建設され多くの労働者とその家族でにぎわった。

 上清炭鉱で電気技師として働いた槙野森(しげる)さん(83)は松原炭住で生まれ、23歳まで過ごした。6畳一間に土間付き。さらに4畳半が付いた炭住もあった。バックと呼ばれた共同の水くみ場から水を運んだ。

 《あたりの露地から、魚を焼く匂いや、赤ん坊の泣き声などが流れてくる

 槙野さんは「家々で収入は違っても、近所同士で家族のようにすごしていた」と振り返る。三井が経営した三井田川尋常小(現田川小)には約3千人が通った。

 五木さんは、69年に文芸春秋で連載した旅行記「にっぽん漂流」で「人間の生きる所には、それが地獄であったとしても一つの生活があり、連帯の歓びも、祭りの興奮もある」と筑豊をつづっている。生と死のはざまで生きる炭鉱での生活は「地獄」の側面があったかもしれない。そして、五木さんの言う「生活」「連帯の歓び」の中心にあったのは、紛れもなく炭住だった。

 閉山後、「マッチ箱のような」炭住は、ほとんどが現代的な公営団地となり、当時の面影を残す住宅は市内に270戸ほどになった。だが、私のような“よそ者”を受け入れてくれる温かさが、筑豊には確かに残る。今も昔も「人間らしい」土地柄なのだ。

 第4回「骨富士 『死と生』教えるぼた山」

=2017/01/01付 西日本新聞朝刊(筑豊版新年号)=

◆好評の西日本新聞アプリ。30日分の全紙面と速報ニュース。初月無料でお試し!

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]