戦争遺構、変貌惜しむ 旧簀子小・赤れんが塀一部残し 市教委「崩れたら危険」、空襲時は抜け道に [福岡県]

高さが低くなった赤れんが塀と三木和信さん。戦時中はセメント部分が抜け道だった
高さが低くなった赤れんが塀と三木和信さん。戦時中はセメント部分が抜け道だった
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 福岡大空襲で焼け残った、旧簀子小学校(福岡市中央区)の赤れんが塀が一部を残し取り壊され、今月半ばに工事が完了した。「地震で崩れたら危険」(市教育委員会)という判断で、地元の自治連合会も了承した。空襲当時を知る関係者からは、戦争遺構の変貌を残念がる声も出ている。

 市教委によると、旧簀子小の主に南側にある赤れんが塀は以前、長さ約96メートルで高さは約1・3メートルだった。「塀がたわみ、傾いていた。熊本地震を受け、福岡でも地震があったら危ないと考えた」(用地計画課)ため、昨年8月ごろに簀子自治連合会に全体の高さを下げることを打診。一部保存を求める声が出たため、約24メートル分はそのまま残し、そのほかは高さを40センチに下げたり、取り壊したりした。

 旧簀子小の南側に隣接する公園との行き来を考え、スロープも設置。自治連合会の田上稔会長(75)は「見通しがよくなったという意見もたくさんある」。今年2月から始めた工事は、今月15日に終えた。

 れんが塀には空襲でのこんな逸話が残る。

 当時、簀子小の南側には圓應(えんのう)寺が隣接。両地を仕切る赤れんが塀は、全国で空襲が激しくなると一部が撤去され、子どもや住民が寺にも小学校にも避難できるような抜け道になった。

 大空襲のとき、圓應寺の三木和信住職(78)はその抜け道を通り、簀子小の防空壕(ごう)に母と避難した。寺の表参道が火の海だったからだ。運動場の下に掘った防空壕。一帯の炎で熱くなると、大人たちが足元の雨水をバケツですくい、屋根にかけたという。

 簀子地区では176人が犠牲になったとされる。運動場と墓地に多くの遺体が並び、その一画で荼毘(だび)に付された。黒こげの遺体もあり、身よりが見つからない遺骨は、抜け道を通り寺の墓地に埋葬されたという。

 抜け道は戦後、セメントで固められた。その場所も今回、高さ40センチまで下げられ、かつての抜け道を想像することは困難になった。三木住職は「戦争体験者が減り、遺構も数少ない。そのまま保存するべきだったが…」と話している。

=2017/06/20付 西日本新聞朝刊=

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