西日本新聞

東日本大震災

【連載】二つのヒバク地 福島と長崎<下>啓発 正しく怖がるために

2011年06月29日 10:33
福島県の会議に出席した長崎大の山下俊一医歯薬学総合研究科長=福島県庁
福島県の会議に出席した長崎大の山下俊一医歯薬学総合研究科長=福島県庁
 園庭を走り回っていたのは、園児ではなくショベルカーとトラックだった。福島第1原発から約60キロ離れた福島市内の幼稚園。5月末、毎時3・34マイクロシーベルトの放射線を検出した表土を、深さ5センチまでそぎ取る作業が行われていた。

 原発事故以降、園庭は立ち入り禁止。「ほうしゃのー」。61人の園児は教室を走り回る。作業後、園庭の放射線はわずか0・33マイクロシーベルトに下がった。職員の一人がつぶやいた。「表土を削れば終わりなのか。どこまでやれば安全なのか分からない」

 5月25日、福島県伊達市のホールに、長崎大医歯薬学総合研究科長、山下俊一(58)がいた。事故直後、被ばく医療の専門家として、県の放射線健康リスク管理アドバイザーに任命された。放射線の正しい知識を啓発するのが仕事だ。福島での講演は約40回に上る。

 「子どもには長袖を着せた方がいいでしょうか」「基準値以下の食物を子どもが食べ続けても大丈夫ですか」。会場には保育士や保育園職員ら約170人。質問が殺到した。山下は聴衆の動揺を抑えるように、明快に言い切った。

 「無用な被ばくは避けるべきだが神経質になる必要はない」

   ■   ■

 山下の知見の土台は、長年にわたる長崎での被爆者医療に加え、旧ソ連で1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の調査実績にある。

 91年5月、チェルノブイリ原発から約130キロのコロスチン市。長崎の被爆者の現状について講演した山下は、不安な顔に取り囲まれた。息子は原爆症ではないか。おなかの赤ちゃんに問題はないか-。誰もがおびえていた。

 ショックだったのは、そうした「放射線への恐怖」が、住民の心身をむしばんでいた事実だ。放射線を気にするあまり病気になったと思い込んだり、農作物を食べずに栄養障害を起こしたりした事例もあった。

 長崎大がチェルノブイリの支援と調査に取り組んで20年。事故の影響を特定できたのは、急性放射線障害による消防士らの死と、ヨウ素に汚染された牛乳を飲み続けた子どもたちの甲状腺がんの急増だけ。そのほかの健康被害と放射線の関係ははっきりせず、「疑い」の域を出ない。

 「正確なデータに基づき、正しく怖がる」。山下は根拠のない、過剰な心配を戒める。

   ■   ■

 汚染水漏出や放射性物質の飛散。福島原発事故の収束はまだ見えない。これほど広範囲、長期にわたる低線量被ばくがどんな影響を及ぼすか、誰にも予測できない。

 「100ミリシーベルト以上の被ばくで発がんリスクが高まるが、それ以下の危険性は科学的に証明されていない」。長崎、広島、チェルノブイリの調査データから、山下はこう主張する。同じことが福島にも当てはまるのか。インターネットや週刊誌で、山下は「無責任だ」と厳しい批判にさらされている。

 正しい判断を下すには、福島でも膨大なデータを集め、実態を突き止めるしかない。そのため県は、近く全県民約200万人を対象にした長期健康調査に乗り出す。全員に問診票を送って事故当時の所在地とその後の行動を調べ、放射線を浴びた量を推定するのだ。

 調査は治療だけでなく、将来の補償、援護の基礎になると見込まれる。必要な時間は最低でも数十年。人権に配慮しながら、粘り強い取り組みが求められる。

 調査検討委の座長に就いた山下は言う。「県民と世界への説明責任を果たす。私たちが挑戦しているのは教科書がない分野だ」 =文中敬称略

(この連載は森井徹、坂本信博が担当しました)


=2011/06/16付 西日本新聞朝刊=
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