【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(1)高山畏斎の碑 宗師生んだ進取の心

花宗堰近くに立つ継志堂跡の石碑
花宗堰近くに立つ継志堂跡の石碑
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障子紙の全国シェア1位を誇る中村製紙所の工場
障子紙の全国シェア1位を誇る中村製紙所の工場
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 矢部川の急流は八女市津江で、石造りの花宗堰によって二手に分かれる。本流はごうごうと音を立てて堰を流れ落ちる。もう一方はゆるやかに西へと流れ、花宗川となる。

 水音の違いに耳を傾けるかのように、堰のそばに威厳のある石碑が立つ。「教学上妻(こうづま)継志堂(けいしどう)跡」。二つの川の豊富な水が育んだ紙すきをなりわいとし、学問の道を究めた高山畏斎(いさい)(1727~84)ゆかりの碑だ。

 花宗堰の北側、上妻郡津江村で生まれた畏斎は、幼い頃から学問を好んだ。しかし、家が貧しくて油が買えず、毎夜、神社の常夜灯の明かりで勉強したと伝わる。「紙すきの間も本を手放さず独り学び続けたそうです」と地元住民はいちずな姿を語る。

 畏斎は念願かない、30歳ごろに大阪で高名な儒学者に入門。帰郷後、村で漢学塾を開き、村民に学問を教えた。その働きは久留米藩主にも認められ、1783(天明3)年には、同藩最初の藩立学問所「学文所」(現在の明善高のルーツ)を現在の久留米市に開いた。

 筑後の近代教育の先駆けとなり、「宗師」と呼ばれた畏斎。「継志堂」は、その没後に弟子たちが志を受け継ごうと開いた私塾で、明治まで続いたという。

 「学ぶ以上は、決して小成に安んじてはならぬ」-。畏斎の教えは、近くにある上妻小の校歌に歌われ、今も受け継がれる。

 畏斎がなりわいとした紙すきの伝統は今も続く。川にほど近い中村製紙所は1872(明治5)年の創業。戦後いち早く機械での和紙製造を始め、現在は障子紙の生産で国内一を誇る。

 「八女の山地から熊本にかけては和紙の原料コウゾの産地。矢部川と花宗川の結節点にあり、豊富な水があるため、ここで和紙製造が始まったのでしょう」と5代目社長の中村健一さん(45)が説明する。

 かつて津江地区に8~10社あった製紙業者も現在は3社。同社は生き残りをかけ、工場内に低温室と高温室を整備し、冷暖房に最適な和紙を研究している。和紙は紫外線を防ぐ効果も高いため、東南アジア諸国やヨーロッパでも販路が広がり始めているそうだ。

 「破れない、燃えない。新たな価値を加えた和紙を作って『和』の良さをもっと世界に広げたい」。ここにも「小成に安んじない」とする畏斎の教えが生きている。

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 八女市津江で矢部川から分流し、筑後川へと注いでいく「花宗川」。川は筑後南部の農作物を育み、新たな産業を興し、独自の文化を生んだ。流域を歩いてみた。

=2017/10/03付 西日本新聞朝刊=

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