【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(3)用水組合 水不足との戦い今も

刈り入れ前の田んぼの横で花宗川を見つめる花宗用水組合の室園事務局長(左)と坂田係長
刈り入れ前の田んぼの横で花宗川を見つめる花宗用水組合の室園事務局長(左)と坂田係長
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倉庫から出し、花宗川沿いの木の枝にぶら下げてもらった「フレフレ坊主」
倉庫から出し、花宗川沿いの木の枝にぶら下げてもらった「フレフレ坊主」
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 9月下旬、花宗川沿いの畦道にはヒガンバナが咲き、田んぼでは黄金色の稲穂が刈り入れを待っていた。「組合の人間にとって一番うれしい風景ですよ」。花宗用水組合(八女市稲富)の坂田亙(わたる)工務係長(47)と室園哲也事務局長(61)が川の流れに目をやった。

 矢部川と花宗川の合流地点にある「花宗堰(ぜき)」を管理し、花宗川の水門などを操作しながら農業用水の配分調整をしているのが花宗用水組合だ。恩恵を受ける農地は約1600ヘクタールに及ぶ。

 花宗川を見ていると、豊かな水量を誇る川に見えるが、農地が広がる筑後平野では「隅々まで均等に水を配分するのではそう簡単ではない」と坂田係長。確かに歴史がそれを証明する。

 花宗川は筑後全体を統治していた大名である田中吉政、忠政親子が1614年に完成させた。しかし、統治が久留米藩と柳川藩に分かれ、矢部川上流に境界線が引かれると激しい水争いの現場となった。

 両藩とも自分たちの用水確保のため、堰や回水路を次々と建設。久留米藩だけでも、花宗川へと安定的に水を送るため、花宗堰上流の矢部川に堰を4カ所、回水路を4カ所開設した。さらに花宗川には20カ所以上に「井手」と呼ばれる取水施設があり、同じ藩内でも調整は複雑を極めた。

 明治以降も続く争い。1960年、矢部川最上流部に巨大な日向神ダムが完成し、ようやく水争いは一段落したという。

 だから、組合の歴史も長い。久留米藩は、管理のための役人は置かず、農民組織の水利慣行に任せた。お上が首を突っ込むと大変なことになるということか。この組織が前身となり、1896(明治29年)に一部事務組合が設立され、名前を変えながら現在の組合につながっているそうだ。

 しかし、どんなに水利の知恵や技術が上がっても、「天の恵み」次第なのは変わらない。今年は6月10日前後の田植え時期から7月20日ごろの出穂時期にかけて十分な雨が降らず、日向神ダムの貯水量が激減、関係者の危機感が高まった。

 「毎日毎日、雨が降ってくれと願って天気予報とにらめっこでした」と室園事務局長。取水制限を実施する寸前までいった時に、職員たちが作ったのが「フレフレ坊主」。黒いビニール製で白い目。てるてる坊主の反対のキャラを軒下にぶら下げたところ、雨が降り始めたという。

 日頃、緻密な配分計算に頭を悩ます組合職員が頼った最後の神頼み。フレフレ坊主は来年以降に備え、倉庫で待機中だという。

=2017/10/05付 西日本新聞朝刊=

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