【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(5)二本松郷場 藩財政支えた年貢米

花宗川にとまっていた舟に年貢米が積み込まれた。かつての発着場に立つ古賀章敏さん
花宗川にとまっていた舟に年貢米が積み込まれた。かつての発着場に立つ古賀章敏さん
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つるや酒店の横に立つ郷場跡の石碑
つるや酒店の横に立つ郷場跡の石碑
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 筑後市山ノ井の国道209号の二本松橋を車がひっきりなしに行き交う。対照的に、その下を流れる花宗川は静かそのものだ。しかし、江戸時代は反対に、川を小舟が行き交っていたというから驚いてしまう。

 現在のように、陸上の交通機関が発達していない時代、水運は大量の物資を運ぶ大事な輸送手段だった。久留米藩政下の花宗川も、上妻郡西部(八女市など)と下妻郡(筑後市とみやま市)の年貢米を若津港(大川市)へ送るための水路として使われた。

 そんな時代、秋の収穫期に近隣から年貢米が集まり、米俵を舟に積む場所としてにぎわったのが「郷場(ごうば)」と呼ばれる場所だ。「花宗川にも数カ所あったそうです。最も上流にあったのが筑後市二本松地区でした」。そう教えてくれたのは、かつて郷場の収納蔵があった場所で「つるや酒店」を営む古賀章敏さん(51)だ。

 古賀さんの父親が酒店を開業したのは1964年。幼いころは、かつて近隣から多くの人を集めた郷場の名残か、花宗川を挟んで料亭と旅館があったという。料亭の日本庭園は「八女郡一」と言われ「毎晩多くのお客さんでにぎわっていましたよ」と古賀さん。

 筑後市史などによると、二本松郷場が開設されたのは1784(天明4)年。八女と三潴郡を結ぶ「福島往還」と、薩摩街道が交差する陸路の要衝に近い花宗川河畔に設けられた。二本松の地名は、舟をつなぎ留めるための松が2本あったことにちなんでいるという。

 郷場は年貢上納の時期だけ開設され、毎年11月末の大潮の時期、川の水量が最も多くなる時期に大庄屋が久留米藩に開設を上申。藩庁が「郷場御立(おた)ての触(ふれ)」を出して許可したという。各村から集まった米俵は、小舟に約10俵ずつ積み込まれて川を下り、川幅の広くなった河口近くで100俵積みの船に積み替えられた。「廻米船(かいまいせん)」と呼ばれた大型船で、若津港から大阪に送られた上妻郡筋の米は「品質が良い」と評判で藩の財政を支えたそうだ。

 米を降ろした戻り舟には、石炭や肥料などが積み込まれたという。川をさかのぼるには力がいるため、川土手から綱で引いていた。それを引っ張る手伝いをしていたのが人足だった。

 役人や農民のほか、大勢の人足も集まった郷場。夜ともなると、けんかやばくちが絶えなかったと伝わる。「朝になると荒くれ者が難癖をつけて商品を強奪するため、柳川の魚の行商人たちは『二本松は夜が明けないうちに通れ』と恐れていたそうです」と古賀さん。店の近くには「郷場跡」の小さな碑も残る。耳を澄ますと、雑然としたにぎわいが聞こえてくるような気がした。

=2017/10/07付 西日本新聞朝刊=

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