【花宗川の詩 八女筑後大木大川】(9)風浪宮 山と海の文化が融合

石造りの五重塔を見上げる阿曇史久宮司
石造りの五重塔を見上げる阿曇史久宮司
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花宗川から船出し、有明海で神事がある沖詣り海神祭(写真は昨年)
花宗川から船出し、有明海で神事がある沖詣り海神祭(写真は昨年)
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 大川市に達した花宗川は、筑後川支流の新橋川と合流し、大きくカーブしながら河口へ向かう。合流点の近くにあるのが1800年の歴史を誇り「おふろうさん」の名で市民に愛される風浪宮(ふうろうぐう)(同市酒見)だ。

 その風浪宮の境内の一角に国重要文化財の石造りの五重塔が鎮座している。「正平十年」(1355年)と、南北朝時代に南朝方が使用した年号が刻まれている。後醍醐天皇の皇子で、日本三大合戦「筑後川の戦い」(59年)で南朝を勝利に導いた懐良(かねなが)親王ゆかりの石塔と考えられている。

 「見事な石と、それを彫る技術。これを造ることができるのは熊本県の菊池から八女にかけての石工技術でしょうし、水運を利用しなければここまで運ぶことはできなかったはず」

 そう語るのは風浪宮67代目宮司で、郷土史家でもある阿曇(あづみ)史久さん(63)だ。「花宗川は江戸時代の完成とされていますが、私はそれ以前から水路を使った八女地方と筑後川下流部のネットワークがあったと考えています」。花宗川の原形となる川があったのではないかという推論だ。

 それを裏付ける証拠は他にもある。風浪宮の参道と鳥居がある大川公園。園内にある弥生時代の酒見貝塚からはカキなどの貝類のほか、イノシシやシカなど山に住む動物の骨も見つかっている。「私たちが考えている以上に昔から、八女地方の山の文化と有明海の海の文化が結ばれ、ここに人が集まっていたのかもしれません」と阿曇さん。

 そうなると、歴史ロマンの想像が膨らむ。八女地方を拠点に6世紀、権勢を誇った豪族筑紫君磐井(つくしのきみいわい)。当時のヤマト王権を苦しめた力の根源に川や海の存在があったのかもしれない。

 そういえば、2月の風浪宮の大祭は、八女の干し柿の市が名物だ。上流の大木町筏溝には舟の名から取ったとみられる「観音丸」という地名もある。花宗川の原形となる川があったのかと思うと、わくわくしてきた。

 風浪宮初代宮司の阿曇磯良丸(いそらまる)は、古代日本の「海の神」とされる。風浪宮で旧暦4月1日に催される「沖詣(まい)り海神祭」で、宮司一行は花宗川の江の津橋から船に乗り込み、筑後川に合流し、有明海で神事を行う。

 花宗川の底を流れる古代、中世の声を聞きながら、私も海に向かい始めよう。

=2017/10/13付 西日本新聞朝刊=

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