2010年5月12日

【豊後水道 奮闘記(村松一也)】<7>活き粋船団(1)

2005年、若手漁師10人で船出した「かまえ直送活き粋船団」

10人で加工場始める

 わしが10年ほど前から、魚の個人発送やイベントを手掛けちょったのは前にも話しましたが、じかに消費者から反応をもらえる楽しさの一方で、魚をさばけん人が増え、今後、昔ながらの魚の一尾丸んまま売りは難しくなると感じました。

 ならば魚を加工して、核家族や個人でも食べられる魚料理を直接提供できんやろか、と考えて結成したんが「かまえ直送活(い)き粋(いき)船団」です。

 最初は、わし一人でやろうと考えちょった。でも、そこに「10人集まればいい補助制度があるよ」っちゅう行政の「悪魔のささやき」が。そこで港の中で普段からよく話したり、焼酎を飲んだりする若手を誘ったら、やる気満々で、すぐに養殖や定置網などの漁師10人がそろった。皆、現状や将来に対する危機感があったんじゃと思う。

 「自分たちが自信を持って育て、捕った魚を直接消費者に届けよう」「自分たちの子どもに安心して食べさせられるものを作ろう」をモットーに頑張ろうと皆で決め、加工場建設にも全員で取り組みました。保健所には嫌っちゅうくらい足を運んだし、先進加工場の視察、メニュー開発など、明るい未来に向けて全速前進っちゅう感じじゃった。

 念願の加工場は2005年11月に完成。お披露目式には、大分県の水産部長、県漁協長などにも来てもらい、船団員でおもてなしをしたんじゃ。

 ところがこの船出の大事なときなんに、多くの船団員が達成感を感じてしまい、あたかも「加工場建設が目的」じゃったような雰囲気に。それを感じてか、水産部長や漁協長が「これからが大変です。頑張ってください」っちゅう言葉をかけてくれたんに、その意味も考えずに飲み出す始末。これで本当に大丈夫なんじゃろうか? っちゅう大きな不安に駆られた。

 予感は的中。3カ月後、空中分解の危機がやってきた。それもそのはず、開業時にほとんど取引先がない状態。今考えると本当に空恐ろしいことなんじゃが、安全・安心でおいしいものを作れば売れるっちゅう思い込みや、「何とかなるじゃろ」っちゅう根拠のない自信みたいなものがあって、前へ進むことしか考えてなかったんじゃ。

 運転資金が底をつき、船団員会議で銀行からの借り入れを提案したが否決。ならばとわしの経営する村松水産からの借り入れ提案もしたが、これまた否決。寒空の下、皆で1時間以上黙り込んだのを覚えちょる。

 それまで船団員会議は、わが家でやるんが当たり前じゃったけど、このころは意見の食い違いなどから、漁港の街灯の下で話し合うほどギクシャクしちょったんじゃ。だが、こんな苦労はまだ序の口じゃった…。
(「かまえ直送活き粋船団」代表)

=2009/09/27付 西日本新聞朝刊=

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