
「あ、い、う、え、お」。寮の自室で平仮名の50音を繰り返し練習するユウコさん
フィリピンから熊本県合志市に移り住み、酪農農家で働いているケンタさん(20)を訪ねた数日後、大分県内で姉のユウコさん(21)に会った。くりっとした瞳がよく似ている。
「仕事、大丈夫でしたか」「元気でしたか」。ユウコさんは月2回ほど、農場に電話をかけているが、半年ほど弟に会っていないという。「ケータイいらないって言うけど心配。2人しか姉弟いないからね」
2008年に来日したユウコさんは、同県内の飲食店で皿洗いなどの仕事をしている。「日本語難しい。でも仕事したいから、勉強します」。いつも持ち歩く小さなメモ帳には、細かな文字で日本語とタガログ語の単語が並ぶ。「仕事と日本語、だいぶ慣れました」と笑みを浮かべた。
勤務先の寮では、同僚の中国人3人と暮らしている。お互い不自由な日本語でのやりとり。ささいことからでも、摩擦が生まれる。「でも我慢する。見ないで、聞かないようにすれば大丈夫」。再び、唇の端を持ち上げた。
ユウコさんは1988年に日本で生まれたが、19歳まで無国籍だった。出生時、日本人の父とフィリピン人の母は結婚しておらず、認知もないまま生まれた。祖母が急病との知らせを受け、母と2人でフィリピンに帰国したのは1歳の時。観光ビザで入国した母の滞在期限が過ぎていたため、入国管理局に出頭した。国籍のないユウコさんに発給されたのは、パスポートでなく渡航証明書だった。
戸籍制度がないフィリピンでは、出生証明書が身分を保証する重要な書類で、特に就職には不可欠という。学費がなくて高校を1年でやめたユウコさんが、やっと見つけた販売員の仕事は月収約3千ペソ(約6千円)という薄給だった。
マニラの日本大使館を通じ、来日前の2008年1月に日本国籍を取得した。日本から父の戸籍を取り寄せ、フィリピンで母の出生証明書や婚姻証明書などを集めた。英文の書類は和訳がなければ受理されない。手続きのほとんどを代行したNPO法人のスタッフは「国籍取得の要件が整っていても、自力で申請するのは不可能に近い」と話す。
こうしてユウコさんが、翌年にはケンタさんが父の国にやってきた。フィリピンで暮らす母には、2人で協力して月に5万円ほど送っているという。
父子関係を示す証拠書類の一つに、父に抱かれる1歳くらいのユウコさんの写真がある。父の印象を尋ねると「お父さんもう関係ない。お金来ないから、私たち貧乏だった」。終始穏やかだった顔が、この時だけこわばった。関東に住む父の住所は知っている。「会いたくない。会っても『元気ですか』だけでしょ」。きっぱりとした口調だが、「でも、ちょっと顔見るだけしてみたい。顔変わってると思う」とも漏らした。
取材中、ユウコさんは口癖のように「大丈夫」「慣れました」と繰り返した。無国籍状態を脱した時、ふるさとのフィリピンは「外国」になった。「帰りたくないのか」と少し酷な質問をすると、再び「慣れました。大丈夫」と返ってきた。「私日本人なったから、フィリピン帰っても、(ビザなしでは)短い間しかいられない。ずっと日本いるよ」。困ったような表情が浮かんだのは、ほんの一瞬だった。
=2010/02/18付 西日本新聞朝刊=