
アルバムに目を通すマリアさん。〝家族〟3人の笑顔であふれている
熊本県のある街で会ったフィリピン人のマリアさん(41)=仮名=は、分厚いアルバムを見せてくれた。写真の一枚一枚に一人娘(15)の成長が記録されている。傍らには、マリアさんが「お父さん」と呼ぶ日本人男性が写っている。優しそうな顔。年齢は彼女より二回り近く上だろうか。
「楽しかったこといっぱいある」。マリアさんは“家族”の15年を収めたアルバムをめくる。男性には日本に別の家族があることを知らなければ、思わずほおが緩むような、和やかな家族スナップばかりだ。
男性は2008年に病死している。マリアさんは翌年、フィリピンで一緒に暮らしている娘の死後認知を求める訴訟を熊本県で起こした。話は、マリアさんがエンターテイナーとして来日した1990年にさかのぼる。
当時、興行ビザで来日した多くのフィリピン人女性が、半年間働いて帰国、数カ月後に日本に戻るサイクルで暮らしていた。マリアさんが自営業の男性に出会ったのは、数度目の来日で熊本県内のクラブで働いていたときだった。ほどなく妊娠。結婚を望むマリアさんに、「待っててほしい。生活のことは大丈夫」と言っていた男性は後に、子どものいる所帯持ちであることを明かした。
マリアさんが郷里に戻って出産した94年以降も、アルバムの写真が示すように、男性との交際は続いた。
男性は毎日のように電話をかけてきた。休暇を取ってはフィリピンに通ってきた。子どもの誕生日には、贈り物を欠かさない。「娘は『お父さんは日本人』って、友だちに自慢してた」。月2、3万円の送金も続いた。だが、生活は厳しく、マリアさんは娘を妹に預け、再び日本とフィリピンを行き来する生活へ。
「最初のころ、お父さんは『そのうち結婚する』と言っていた。信じたいと思ったけど、だんだん『結婚はもういいから、子どもの認知だけして』とお願いするようになった」
マリアさんは今も、財布に男性の写真を入れている。「今までのことは、後悔していない」。一方で、「ずっと苦しかったから、(男性の死を知って)少し心が楽になった」とも語る。そして、「私の場合はちょっとラッキーね」と薄い笑みを浮かべる。日本に出稼ぎに来たフィリピン人女性が子どもを産んだ後、父親が行方をくらませる、経済的支援をしないといった事例は、身近にいくつもあるからだ。
死ぬまで男性がごまかし続けた認知は、娘の未来のためには譲れない。「娘にはお父さん一人だからね。それに、日本行くには、お父さんが必要だから」。日本国籍取得には認知が不可欠なのだ。娘は日本の大学への進学を希望している。マリアさん自身も、日本で働こうと考えている。財産分与も日本での新生活には欠かせない。
2月中旬、在留期限が切れたマリアさんは、いったん帰国した。「次に日本に来るときは、娘と一緒よ」。フィリピンで弁護士からの報告を待っている。
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●こちら取材班
バブル経済崩壊後の就職氷河期に社会に出た30代前半世代の「今」が気になります。非正規労働の現場を渡り歩く人、引きこもる人、将来展望が開けないために子どもを産めない人…。いろんな壁に直面している人の話をよく耳にします。一方で、新たなライフスタイルの模索も始まっているようです。体験談や抱えている思い、ご意見などをお寄せください。
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