佐世保の小6が「家族の引き揚げ史」 満州移住、曽祖父母の足跡たどる 戦後も苦難の道のり「授業で習わないこと」学ぶ [長崎県]

家族の歴史を調べた清水勇志君
家族の歴史を調べた清水勇志君
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スケッチブックには「家族の戦後」もまとめた
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満州から引き揚げた曽祖父母の写真 (清水君がまとめたスケッチブックから)
満州から引き揚げた曽祖父母の写真 (清水君がまとめたスケッチブックから)
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 「引き揚げ」ってどういうことだろう-。佐世保市花高1丁目の花高小6年清水勇志君(12)は学校の宿題をきっかけに、他界した曽祖父母が終戦後に中国から佐世保に引き揚げたルーツを知った。“先生”役は、当時まだ幼かった祖母の塘文子さん(72)。詳しく聞くうちに、戦時中や終戦後の市民の暮らしが、授業とはまた違う姿で鮮明に表れてきた。

 鹿児島生まれの曽祖父・故浜田武蔵さんと佐世保生まれの曽祖母・故浜田ユキノさんは、1943年に見合い結婚。当時、日本が中国東北部につくった満州国が「王道楽土」とうたわれた時代。2人は満州へ渡り、武蔵さんは満鉄(南満州鉄道)で働いた。

 満州では高い塀に囲まれた区画に日本人だけで生活していた。一軒家に住み、中国人のお手伝いさんを雇った。日本人は塀の外に行ったら危ない、と言われていたが、ユキノさんは中国人に誘われて遊びに行った。武蔵さんからは怒られたが、ユキノさんは「庶民の中国人は優しかった」と話したという。

 45年6月、長女文子さんが生まれた。だが、2カ月後に敗戦。1年以上、中国で逃げ惑うことになった。満州の家を出るときには、仲良くしていたお手伝いさんが袋いっぱいにパンのような物を持たせてくれた。生後2カ月の文子さんは泣きもせず、体も丈夫ですくすくと育ったが、母親のユキノさんが栄養失調で肺病に。「文子と一緒に死ぬ」とまで言ったが武蔵さんは「どんなことがあっても連れて帰る」と二人を背負って逃げた。

 それでも逃げ切れず、捕虜になった。46年の引き揚げ船でようやく帰国。佐世保市の浦頭港にたどりついた。ユキノさんはすぐに入院。文子さんはユキノさんの佐世保の実家に一時預けられた。

 ユキノさんの回復後、武蔵さんの故郷・鹿児島に帰ったが、生活が苦しかったためか、再び佐世保に戻ってきた。魚売りや日雇いでなんとか稼ぎ、家を建てたが大火事で焼失。その後も立ち退きを繰り返した。武蔵さんは40代後半に電器店を開業し、ようやく生活が安定。家も買い、60代になってからはユキノさんとの旅行も楽しんだが、66歳の冬に病気で他界した。ユキノさんは2016年6月、95歳で亡くなった。

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 清水君が曽祖父母の体験を聞いたきっかけは、今年の夏休みの宿題。冊子に平和について調べる項目があり、祖母に「戦争のことを教えて」と聞いた。夏休み中、昼食を祖母の家で食べていたこともあり、7月下旬から3週間ほどかけて話を聞いた。

 祖母の話を聞く中で出てきた疑問は、中学3年の姉が使う歴史の教科書やインターネットで調べた。浦頭港には引き揚げに関する資料館があることを知り、8月19日、祖母と一緒に訪れた。調べたことはスケッチブックにまとめた。

 調べて思ったことは、「国同士の仲が悪いのが国民の生活まで響くんだな」ということ。今の日本と中国は「完全には仲直りしていないと思う」。ニュースなどで、今も日本人に恨みを持つ中国人や韓国人がいると聞くからだ。

 曽祖父母はその中国で当時、生活し、子どもを産み、市民と交流し、死にものぐるいで逃げた。妻と娘を「どんなことがあっても連れて帰る」と言った曽祖父の言葉が「強いな」と心に残った。

 引き揚げ以来初めて浦頭を訪れた祖母は「一緒に来られて良かった」と感慨深そうだったが、「戦後の生活の話をする時は苦しそうだった」。体験談をまとめたスケッチブックを祖母に見せると「よくまとめたね」と言ってくれた。苦労した祖母を「すごいな」と思うと同時に、家族として今を生きる身として、心から思った。「戦争が終わって、よかった」

=2017/12/02付 西日本新聞朝刊=

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