シゲちゃん 長崎原爆72年(3)「被爆」一度だけ告白

1970年代半ばの旧国鉄久留米駅前
1970年代半ばの旧国鉄久留米駅前
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出前係のシゲちゃんがいた福岡県久留米市の沖食堂。明善高校の裏手にある
出前係のシゲちゃんがいた福岡県久留米市の沖食堂。明善高校の裏手にある
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 原爆孤児となったシゲちゃん。「長崎原爆戦災誌」(1985年刊行)によると、福岡県久留米市の陸軍病院で養育された「五、六歳の男の子」は「看護婦の兄弟で子どものいない家に引き取られて行った」とされるが、その後のことは分からなかった。

 次の有力情報は、6歳で別れた「命の恩人」を捜す池田道明さん(78)が、かつて耳にした「年の頃が合うシゲちゃんが久留米の飲食店で働いていた」という、雲をつかむような話を確かめる過程でもたらされた。

 「あのシゲちゃんじゃなかですかね」と話してくれたのは久留米市でラーメン店を営む広瀬孝さん(51)。「小さか頃、食堂で手伝いばしとったとですが、出前係が『シゲちゃん』って呼ばれとった」。気立てが良く常連客に人気だった。

 もう一人、同市の西頼護(にしよりまもる)さん(60)は、行きつけの食堂で出前の代金とお釣りの計算ができず、主人に叱られるシゲちゃんを覚えている。「満足に学校に通えなかったんだと思う」。それでも懸命に生きていた。 2人の記憶によると、目鼻立ちがはっきりして、身長は170センチほど。家族はおらず独身で、いつも愛称で呼ばれていたという。しかし、このシゲちゃんと池田さんが捜す恩人は、同じ人物だろうか。

 シゲちゃんがいた食堂とは、同市篠山町にある55年創業の「沖食堂」。創業者(故人)の娘である小川美佐子さん(69)によると、初代の出前係だった。「懐かしか、覚えとるよ」。シゲちゃんは、創業者が受け入れていた養護施設出身者の一人で、名前は「いけすえ しげなり」。長崎大の記録で分かった「横田」の姓ではなかった。だが、シゲちゃんには戦後に養子縁組されていた可能性がある。

 小川さんはもう一つ覚えていた。「昔、シゲちゃんが一度だけ『長崎で原爆に遭った』と話しとったんよ。つらかろうと思って、深くは尋ねんかったけど」。細い糸がつながった気がした。

 シゲちゃんが養護施設にいた事情は不明だが「広島・長崎の原爆災害」(79年発行)は、当時の孤児の状況をこう記す。「いったんは引き取られていっても安住できたものは少なく、急激な環境の変化やその先々での葛藤から」飛び出して転々とする者もいた-。

 日本が高度成長期にあった50~70年代、大人になったシゲちゃんは、辞めたり戻ったりで通算十数年、30代半ばまで沖食堂で働いたとみられる。その後の消息も分かった。

 彼は、旧国鉄久留米駅前で路上生活をしていた。

⇒【続き】シゲちゃん 長崎原爆72年(4)「花と竜」に人生重ね

=2017/08/02付 西日本新聞朝刊=

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