シゲちゃん 長崎原爆72年(2)「原爆孤児」を追って

長崎市の爆心地近くにあった軍需工場で救護活動をした元看護師の下野サツエさん=福岡県久留米市
長崎市の爆心地近くにあった軍需工場で救護活動をした元看護師の下野サツエさん=福岡県久留米市
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原爆で長崎医大付属病院が受けた人的被害をまとめた「原子爆弾統計表」。シゲちゃんの母親は古屋野外科(第2外科)病棟にいた
原爆で長崎医大付属病院が受けた人的被害をまとめた「原子爆弾統計表」。シゲちゃんの母親は古屋野外科(第2外科)病棟にいた
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 長崎大原爆後障害医療研究所(長崎市)の保管庫に「原子爆弾統計表」というぼろぼろの帳面が残っている。長崎医大付属病院で被爆した患者や付添人の生死の記録。6歳で孤児になり、愛称しか分からないシゲちゃんの家族につながる手掛かりだ。

 彼の母親が入院し、祖母が付き添っていた第2外科の記録では、患者26人のうち亡くなった女性は5人、付添人は3人。付添人は2人が夫婦とみられ、状況が合わない。残る1人は「横田」と記され、姓が一致する女性患者は1人だけ。死亡者名簿の「横田フサ子」がシゲちゃんの母親だった可能性が高い。

 「横田シゲ-」。フルネームは何だろう。彼が通ったとみられる平戸小屋町の朝日国民学校(現・朝日小)の学籍簿を当たろうとした。だが、市教育委員会によると「(シゲちゃんが入学した)1945年度分は残っていない」。シゲちゃんを孤児にした原爆が、名前も奪ったように思えた。

 一方、市がまとめた「長崎原爆戦災誌」(85年刊行)に、気になる孤児の記述がある。被爆翌日に別れたままの「命の恩人」シゲちゃんを捜していた池田道明さん(78)が、数年前に気付いた。福岡県久留米市から来た救護隊が孤児を保護して連れ帰り「看護婦寮でしばらく養育した」。保護場所は長崎医大付属病院で「五、六歳の男の子」と記しているのだ。

 久留米市を訪ねた。当時、救護隊を派遣したのは久留米陸軍病院。記録をたどると1人の女性がいた。外科看護師だった下野サツエさん(99)=同市上津町。「長崎に大型爆弾が落とされた」との一報を受けて編成された第1次救護隊(177人)の一員だった。

 派遣されたのは軍需工場だった三菱製鋼所。爆心地から南1キロに位置した。「10歳くらいの子。全身やけどで皮膚がずるっと垂れて…」。薬は足りず、救えない命が多すぎた。「戦争は、ばかげている。1発で長崎を地獄に変えた原爆も」。72年前の記憶を呼び覚まし、下野さんはこう言った。

 「確かにおったですよ。小さな男の子」。シゲちゃんとみられる孤児を含む3人を、救護隊が久留米市に連れ帰ったと証言した。孤児たちは、しばらく病院内で暮らしていたが「その後は、分からんねぇ」。

 国の調査によると戦後、孤児は全国に12万3511人(48年時点)いたことが分かっている。中でも被爆の影響など劣悪な状況にあった原爆孤児たちは「精神的にも社会的にも落後し、浮浪児として軽蔑した目で見られた」(長崎原爆戦災誌)。シゲちゃんが心配だ。

⇒【続き】シゲちゃん 長崎原爆72年(3)「被爆」一度だけ告白

=2017/08/01付 西日本新聞朝刊=

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