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「船の墓場」日本と台湾結ぶ 戦没者慰霊、若者が継承

バシー海峡を望む岬で戦没者を弔う遺族たち
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 【恒春・中川博之】太平洋戦争中に台湾南方のバシー海峡で亡くなった日本兵を弔ってきた台湾の人々に心を打たれ、台湾在住の日本人の若者たちが慰霊祭を開催した。台湾最南端、屏東県恒春の岬に立つ「潮音寺」を11月下旬、約130人の遺族や台湾人と訪れ、10万人以上ともいわれる犠牲者を供養した。慰霊祭実行委員長の渡辺崇之さん(44)は「潮音寺を守ってくれた台湾の皆さんに感謝し、一緒に寺を守り、悲劇を伝えていきたい」と語る。

  「父ちゃん、父ちゃん、やっと会いに来たよ。母ちゃんも連れてきたよ」。潮音寺での慰霊祭の後、近くの砂浜に立った新潟市の佐藤〓(「大」の下に「カ」)子(こうこ)さん(77)は両親の遺影を持ち、海に向かって語り掛けた。5歳だった1944年秋、父親が乗った船はバシー海峡で沈められた。70年余りが過ぎて実現した“再会”。「皆さんに導かれ、ようやくこの地に立つことができました」と声を詰まらせた。

 長女の足立明美さん(55)は打ち寄せる波に足を入れた。「祖父を奪った海は冷たく、暗く、つらいものと思っていました。でも今日の海は温かかった。いろんな人の優しさが込められていました」

 感極まる母娘の姿に、台湾留学中の実行委員、権田猛資(ごんだ・たけし)さん(26)は「1年に1度は遺族が集まる場所をつくる責任を感じた」と、今後も慰霊祭を続ける決意を口にした。

   ◇    ◇

 潮音寺を建てたのは、44年8月に撃沈された輸送船から奇跡的に生還した静岡市の中嶋秀次さん=2013年に92歳で死去。いかだに乗って12日間漂流し、一緒に乗っていた仲間が飢えや渇きで亡くなる中、1人だけ救出されたという。

 台湾南部の高雄市で土産物店を営む呉昭平さん(77)、鍾(しょう)佐栄さん(66)夫妻は77年、寺の建立場所を探す中嶋さんと出会った。過酷な体験を聞き、建立に協力、81年に完成させた。中嶋さんが亡くなった後も近所の住民に手伝ってもらい寺を管理してきた。

 「1人だけ生き残った中嶋さんの自責の念を思うと、供養せずにはいられなくなった」と呉さん。砂浜で遺族と肩を並べて「一緒に日本へ帰ろう」と海に向かって何度も叫んでいた。目は真っ赤だった。

   ◇    ◇

 台湾で経営コンサルタント業を営む渡辺さんが初めてバシー海峡戦没者慰霊祭を催したのは、戦後70年を迎えた昨年の夏。節目の年に1回だけ開催するつもりだったが、呉さん夫妻の思いに触れ、多くの遺族から次回の参加申し込みが相次いだため継続を決めた。

 ボランティアで集まった会社員や大学生など20~40代の実行委員会メンバー9人で宿や食事、バスを手配。「ここ数カ月間は仕事が手に付かなかった」と振り返るが「遺族の話を聞くと背筋が伸びる。来年も続けなければと思う」と語る。

 台湾在住10年目の会社員、舘量子(たち・かずこ)さん(34)は、世話になった台湾人男性=2011年に85歳で死去=が「日本人はバシー海峡で亡くなった同胞のことを忘れている」と嘆いていたのが心に引っかかっていた。昨年、渡辺さんに誘われて実行委に参加。「じいちゃん(台湾人男性)が、バシー海峡で亡くなった方々と話し合って私を実行委員にしてくれたのかもしれない。日本人を大切にしてくれた台湾の皆さんへの恩返しにもなれば」と話した。

 ◆バシー海峡 台湾とフィリピンのルソン島の間にあり、台湾が日本統治下にあった太平洋戦争中は、南方戦線に武器や兵士を届け、石油などの資源を日本に運ぶ輸送船の重要な経路になっていた。戦況悪化とともに米軍の潜水艦の標的にされ、多くの船が沈められた。「輸送船の墓場」と呼ばれ、犠牲者は10万人とも20万人ともいわれる。潮音寺を建てた中嶋秀次さんが乗っていた輸送船「玉津丸」には5千人近く乗っていたが、ほとんどが亡くなったという。


=2016/12/24付 西日本新聞朝刊=

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