
6歳のときに幼稚園の運動会で親子競技に出場した成迫健児(右)と父の壱=1990年10月1日、大分県佐伯市
日本における400メートル障害のパイオニア、山崎をうならせたストライド走法。成迫は中学1年から父の壱(まこと)と取り組み、習得した。
壱は早大時代に10種競技などで活躍し、1984年のロサンゼルス五輪を目指していた。早大3年のときに右足首の靱帯(じんたい)を断裂。卒業して中学教諭となっても競技を続けていたが、腰骨を折って選手生命を断たれた。直後に生まれたのが健児。ロサンゼルス五輪開幕の3日前だった。「本当は五輪と名付けたかった」。父は息子に夢を託した。
「引退後の姿しか見ていないけど、格好良く走る父にあこがれていた」と健児。小学時代は陸上とサッカー、水泳をし、自由形で全国大会に出場した水泳の成績が一番よかったが、中学では迷わず陸上の道を選んだ。
1年の夏休み。タイムが伸びずに悩む健児に、壱は、ももを高く上げて走る「もも上げ走法」を教え込む。壱が早大で教わったストライドを大きくする練習だ。「183センチのわたしに似て健児も背が高かった。ストライドの大きさは遺伝していると思った」。歩幅が広がるにつれてスピードはアップ。3年で国体の110メートル障害に出場した。
伸びのある走りは、壱の軽い思いつきでさらに進化する。400メートル障害に初めて挑戦した高1の県大会。成迫は踏みきる際の足が合わず、ハードルの手前で歩幅が狭まってしまい、着地から次の飛越まで15歩もかかった。見かねた壱は歩数を減らし、踏みきり足も変わらない「13歩」での跳躍を指示。週2回高校を訪れ、踏みきるタイミングを指導した。高2になった2001年夏には、5台目まで13歩で跳べるようになった。
400メートル障害のハードルは10台。「5台目まで13歩」は、同年のエドモントン世界選手権銅メダリスト、為末と同じだったが、壱は気付いていなかった。「(世界記録保持者の)ケビン・ヤング(米国)が12歩で走ったと聞いたから13歩ぐらい大丈夫と軽く考えていた」。課された高い目標をクリアした健児は、同年の世界ユース選手権で銅メダルを手にし注目を集めた。
「つらいときに相談に乗ってくれたし、そばにいてくれた。父のためにも頑張りたかった。夢を継げてよかった」。五輪出場が決まると、健児は真っ先に実家へ電話し、感謝の気持ちを伝えた。父との二人三脚で夢の五輪へ道を切り開いた成迫。次は自身の夢、五輪のメダルへと加速する。 (敬称略)
=おわり
(この連載は運動部・西口憲一、末継智章が担当しました)
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■思い 「日本選手権は勝ちにいくレースだったのに勝てなかった。代表に選ばれたうれしさもあるけど、負けた悔しさの方が強く残っている。この悔しさは五輪でしか晴らせない。北京では特別なことをせず、力を発揮できるようにマイペースで準備していく。高く見てメダル、最低でも47秒台を出して決勝に残りたい。為末さんにも負けたくない」
=2008/07/18付 西日本新聞朝刊=