地元遺産へ誘う

【誇り】独の炭鉱支えたサムライ

-九州から移住した 湯池 弘さん 有吉伸昭さん-
 九州から9千キロ。世界遺産「ツォルフェライン炭鉱業遺産群」と同じルール地方の炭鉱で働き、ドイツの近代化を支えた日本人がいた。1957~62年、ドイツとの政府間協定に基づいて派遣された436人の日本人炭鉱労働者だ。九州からも、20歳前後の若者が胸を高ぶらせ、異境へと旅立った。 (岩尾款)

ドイツの炭鉱で働き始めたころ、坑内に入るエレベーターで撮った写真。手前左が湯地弘さん

ドイツの炭鉱で働き始めたころ、坑内に入るエレベーターで撮った写真。手前左が湯地弘さん

 中世から港町として栄えたハンブルク郊外。ドイツ派遣第1陣の一人、湯地(ゆじ)弘さん(80)のれんが造りの自宅には畳の和室がある。ドイツに暮らして半世紀以上だが、日本の心は忘れていない。今では「軍艦島」の通称で知られる端島炭坑で働いた湯地さんは、「端島は心の古里」と目を細める。
 宮崎市の農家の生まれ。進学校に入ったが、当時大学に通えるのは裕福な商家や医者の子ばかり。進学を断念、大卒以上の高給がもらえる端島炭坑で働いた。
 島では、わけあり風の過去を語らぬ人も多かった。彼らと「しんどいなあ」「今度の休み、丸山町(長崎市の花街)に行こうや」などと励まし合った。落盤やガス爆発もある坑内は死と背中合わせ。学歴や過去は意味を持たなかった。
 「生き方、裸の自分を鍛える大切さを学びました」
 端島で働き始めて5年。炭鉱マンとして自信がつき始めたころ、炭鉱トップの鉱長に呼ばれた。「おまえ、ドイツに行ってこいや」

有吉さん(右端)の家に集まって、思い出話に花を咲かせるドイツへ渡った元炭鉱労働者たち。左から稲津勉さん、前園五郎さん、山本勝栄さん

有吉さん(右端)の家に集まって、
思い出話に花を咲かせるドイツへ渡った元炭鉱労働者たち。左から稲津勉さん、
前園五郎さん、山本勝栄さん

ツォルフェライン炭鉱跡の博物館には、軍艦島の写真があった

ツォルフェライン炭鉱跡の博物館には、
軍艦島の写真があった

軍艦島について語る湯地さん

軍艦島について語る湯地さん

長崎造船所第三船渠 三池炭鉱宮原坑 小菅修船場跡 萩反射炉 三池炭鉱万田坑

(上段右上から時計回りに)三池炭鉱宮原坑、小菅修船場跡、萩反射炉、三池炭鉱万田坑、長崎造船所第三船渠

 湯地さんはドイツへの日本人派遣者の約3分の1が配属されたデュイスブルク市のハンボルナー鉱で働いた。戦後復興中の西ドイツ(当時)は技術の進んだあこがれの国だった。
 「日本人も負けちゃおれん」という気負いは、ともに汗を流すうちに消えた。2週に1度、現金払いの給料日には明け方までドイツ人の同僚とビールをあおった。かつて同盟国だった縁で日本人に一杯をサービスしてくれる店もあった。
 福岡県宮若市にあった貝島炭鉱出身の有吉伸昭さん(72)は第3陣の一人。会社の経営する炭鉱技術学校を出て就職したばかりの19歳のころ、ハンボルナーで働き始めた。身長約165センチ。日本では掘進夫の経験も無かった。重さ6キロのカンテラをぶら下げ、屈強なドイツ人と同一条件で働いた。給料は完全歩合制。
 「体格は劣るが必死に頑張った」
 湯地さんも有吉さんもドイツ女性と結婚し、3年の派遣期間終了後もドイツに残った。有吉さんは、今もハンボルナー近くの町に住む。たまに、ドイツに残る仲間と集まって家族や孫の話に花を咲かせる。
 ドイツ派遣が始まったのは、石炭から石油へのエネルギー革命前夜。1955年には、石炭鉱業臨時措置法によって合理化が促進され、60年には三井三池鉱でストライキ闘争があった。
 ドイツ派遣を調査した森広正法政大名誉教授によると、日本からの派遣は5年で中止される。その後はトルコや韓国から数多くがドイツへ渡った。炭鉱労働者は、国境を越えて戦後の世界経済を支え続けた。
 風化する石炭産業の記憶を後世へ伝えるため、ルール地方ではツォルフェライン炭鉱業遺産群など産業遺産の保存活用が進む。日本ではようやく光が当たり始めたばかりだ。
 「心の古里が世界遺産になればうれしい」と湯地さん。腕には、炭鉱時代にできた傷に炭じんが入った黒い筋が残る。それは、日本とドイツの近代化を支えた男の勲章に見えた。

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