地元遺産へ誘う

【記憶】廃墟に残る「暮らしの跡」

-炭鉱閉山後無人島になった軍艦島-
東西160メートル、南北480メートルの島に、美容室も映画館もある”デパート”もあった
高層住宅をつなぐ渡り廊下にも草木が茂り、時の流れを感じさせる

高層住宅をつなぐ渡り廊下にも草木が茂り、
時の流れを感じさせる

立て坑は海底炭鉱である端島のシンボルだった

立て坑は海底炭鉱である端島のシンボルだった
(「軍艦島を世界遺産にする会」提供)

端島銀座には市が立ち、にぎわいをみせた(いずれも「軍艦島を世界遺産にする会」提供)

端島銀座には市が立ち、にぎわいをみせた
(「軍艦島を世界遺産にする会」提供)

 うわさに聞く「廃虚の島」は時間軸が曖昧だった。朽ち果てた小中学校の校舎内には当時の教科書や教職員が残した書類などが散乱する。さらに住居区域には当時の真空管テレビ、茶わん…。「軍艦島」の通称で知られる長崎県・端島。炭鉱で栄えたこの島は1974年の閉山とともに無人となった。人は去っても残された教材や日用品には当時の時間が流れる。
 島にはデパートなど建物を擬人化し、そこに込められた思いなどを物語化した舞台で人気がある福岡市の劇団ギンギラ太陽’s 主宰の大塚ムネトさん(48)にも同行してもらった。
 「時代が止まっているみたいですね」。大塚さんも同じ印象を抱いたようだ。
 元住人で、NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳さん(59)の話を聞きながら島内を巡った。各所で当時の生活が浮かび上がってくる。
 学校のグラウンド。
 「ホームランを打つと、ボールが海に落ちてしまうでしょ。だからアウト。それが端島ルール」
 団地内の公園スペース。
 「ここは建物を波が乗り越えて頭上から塩水が降ってくるから潮降町(しおふりまち)と呼んでいたんです」 東西160メートル、南北480メートルの島内には、美容室もあれば、映画館もデパートのような購買所もあった。
 「子どものころは狭く感じなかった。大抵のものは島内で事足りた」
 島は戦後のある時期まで、生活レベルの高い、未来を先取りした「コンパクトシティー」だったのだ。
 「今の姿も未来かもしれませんよ」。坂本さんが島を訪れる観光客に必ず見せるのが昭和30年代に書かれたとみられる新聞記事だ。
 〈狭い土地は縦に宇宙間に延びていく。長崎のかなた、この端島(軍艦島)の風景は何世紀か先の未来図かもしれない〉
上空から見た「軍艦島」の姿(本社ヘリから)

上空から見た「軍艦島」の姿(本社ヘリから)

端島小中学校跡(奥)のグラウンドには、黄色い花が咲いていた

端島小中学校跡(奥)のグラウンドには、
黄色い花が咲いていた

(上段から時計回りに)無人となった島に残された座像、机、保育園跡の靴、端島神社のお札

(上段左上から時計回りに)無人となった島に
残された座像、机、
保育園跡の靴、端島神社のお札

 右肩上がりの経済成長が始まり、「明るい未来が信じられていた」ころの記事。だが、2011年の東日本大震災以降、当たり前に続くと思っていた日常が脅かされる可能性があることを知ってしまった現代人にとっても、この島の現実は未来図なのかもしれない。
 大塚さんがつぶやいた。
 「この島の人たちも、ここの生活がずっと続くと信じていたんですよね。ここは未来警告遺産なのかもしれませんね…」 (内門博)

大塚さんが「軍艦島」に扮(ふん)し、思いを語ります

※建物の老朽化で危険なため、長崎市は端島の見学範囲を制限して一部のみを公開。今回は同市から特別な許可を得て取材・撮影しています。

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