戦後70年へ ~証言をつなぐ~

空襲 すべてを焼く

九州の傷痕に迫る

 太平洋戦争下に、女性や子ども、高齢者たちを巻き込んだ米軍の無差別大量殺りく「空襲」。九州全体では、どれほどの命や家が失われ、都市や地方の町が壊滅したのか。その概数でも分かればと、私たちは取材を始めた。だが、戦後70年を前にした今も、被害の全体像をつかむことは容易ではなかった。

 軍師・黒田官兵衛の墓がある崇福寺(福岡市博多区)。観光客が押し寄せる山門をくぐり、石畳の通路から外れると、探していた「戦災親子地蔵」はあった。

 69年前のきょう、深夜からの福岡大空襲で犠牲になった母子の地蔵だ。かつては約3キロ離れた簀子(すのこ)地区(同市中央区)にあった。袈裟(けさ)姿の母地蔵にはマフラーが巻かれている。表情は泣いているようにも映る。

福岡壊滅 火の雨降る

死者・不明1100人超 B29 220機2時間爆撃

1945年6月19-20日

 「火の雨が降った」。生存者はそう語り継ぐ。1945年6月19日午後11時すぎから始まった福岡大空襲。約2時間近く続いた結果、町は焼き払われ、被災者は約6万人を超えたとされる。被災の記憶を人々はどう抱え、戦後70年の節目を迎えようとしているのか。九州各地の空襲体験者たちも含め証言に耳を傾けた。

 1945年6月19日午後3時55分、マリアナ諸島の米軍基地からB29爆撃機が次々に福岡に向かって飛び立った。
 同10時半すぎ、福岡地区に警戒警報発令。ラジオは「有明海方面に敵機編隊侵入。長崎、大牟田方面警戒を要す」と伝えた。同11時前には空襲警報に変わり、サイレンが鳴り響いた。
 同11時11分、B29爆撃機220機余りが脊振山を越えて福岡上空に到達。空襲が始まった。東西は御笠川から樋井川までの約5キロ、南北は海岸線から大濠公園までの約1・8キロの範囲が集中的に波状攻撃された。
 早良郡入部村、内野村、田隈村(いずれも現福岡市早良区)や、糸島郡雷山村(現糸島市)、筑紫郡の安徳村、岩戸村(現福岡県那珂川町)も爆撃された。
 20日午前1時53分、空襲警報解除。市街地の火災は、同6時半ごろに鎮火した。
 福岡管区気象台の観測によると、気温は19日午後11時から20日午前2時にかけて3・4度上昇。湿度は85%から58%に下がった。
 被災者や焼失戸数について「福岡市勢要覧」(1947年)は、被災者約6万599人、死者902人、行方不明者244人、被災戸数1万2693戸とする。だがその後の聞き取り調査などでデータに不足があることが判明。それ以上の被害だったと予想される。


九州・空襲の記憶

徹底空爆 市民標的

 全国の大都市と同様に、九州各地でも大きな被害が出た空襲。当時、通常爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下した米軍兵士たちは、火の海が広がる地上の光景をどう見ていたのか。九州への空襲はどんな戦略に基づき、戦禍は拡大したのか。研究者の分析や、米軍関係者の証言、九州各地に残る戦争遺跡を取材した。

取材 佐藤倫之、木下悟、吉塚哲、山崎健、中山憲康、角谷宏光、古川努、森井徹、丹村智子、坂本公司
デザイン 大串誠寿 WEB制作 矢野由香(メディアプラネット)