戦後70年へ ~証言をつなぐ~

特攻6400人の悲劇

「戦争の不条理伝え」

 彼らが乗り込み、南の空へと向かった戦闘機の一つ「飛燕(ひえん)」を囲むように、1036人の遺影と遺書などが展示されている。

 鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館には、年間50万人を上回る見学者が訪れる。そこには太平洋戦争末期、本土南端の旧日本陸軍知覧飛行場ばかりでなく、九州各地などから沖縄戦へと飛び立った10代、20代の陸軍特攻隊員たちの生と死の証しが記録されている。

 その一人である安部正也大尉は、福岡県出身、21歳、1945年5月4日戦死とある。音声ガイドからこんな足跡が流れてきた。

特攻「十死零生」の青春

戦局悪化1944年10月レイテ沖初編成

 太平洋戦争末期に編成され、爆弾もろとも敵艦に体当たりする特攻。隊員のほとんどは20歳前後の若者で、学徒兵の姿も目立った。生還を前提としない作戦が始まって今年で70年。出撃体験を持ち、生き残った元隊員や、出撃命令を待ち続けた元搭乗員、それに特攻で身内を亡くした遺族などに、今の思いを聞いた。

 特攻隊の編成は1944年10月20日、フィリピンでの「神風特別攻撃隊」が最初。同25日にレイテ沖海戦で米航空母艦を撃沈するなどした。
 日本は41年12月8日、米国・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、マレー半島に上陸。米国、英国と開戦した。だが、42年6月のミッドウェー海戦の敗北を境に戦局は悪化。44年6月にはマリアナ沖海戦で敗退し、翌月、サイパン島も陥落した。
 石油など南方資源を得るため、占領していたフィリピンの確保が必要だったが、使える航空機はわずか。熟練パイロットも失い、防衛研究所の「戦史叢書(そうしょ)2」によると、「戦果の期待できる特攻を採用するよりほかに方法はない」とされた。
 それ以前にも、真珠湾攻撃に出撃した小型潜水艦部隊を「特別攻撃隊」と称したことなどがあった。ただ従来は生還を否定しなかったのに比べ、帰還は前提とされなくなった。米軍がマリアナ諸島を占領し、日本の大都市を空襲するようになると、B29への体当たり攻撃も行われた。
 45年3月、硫黄島が陥落。沖縄防衛のため、各地の航空隊が再編され、志願した訓練生の習熟を急ぐなどして、残存機での特攻が行われた。発進基地は、ほとんどが南九州。だが、米軍も防空対策を施し、初期ほど戦果は上がらなくなっていた。
 同年6月23日、沖縄戦が終結。本土決戦に備え、海軍の水中・水上特攻基地の整備も進められた。特攻隊戦没者慰霊顕彰会(東京)によると、潜水器具を装着し、棒につけた機雷で自爆攻撃する訓練も行われた。終戦に伴い、関係書類は廃棄され、日本軍も解体されたため、特攻作戦の詳細は確定していない。戦没者数は集計方法などで異なるが、同顕彰会によると、計6418人(2008年9月集計)とされる。