戦後70年へ ~証言をつなぐ~

太平洋戦線 傷痕今も

ビルマは地獄 死んでも帰れぬニューギニア

 「ジャワは天国、ビルマ(現ミャンマー)は地獄、死んでも帰れぬニューギニア」。太平洋戦争末期、圧倒的な戦力で迫る連合軍を前に、海外の戦地で苦戦を強いられた日本兵たちは、そう口にした。

 補給を軽視した無謀な作戦の結果、悲惨な撤退を強いられ、その退路が「白骨街道」と呼ばれたビルマ戦線。ジャングルを行軍する兵士が、マラリアなどの病気や飢餓に倒れたニューギニアの戦い。九州で編成された部隊も、そうした過酷な戦場に派遣され戦った。

 1941年12月8日、米国のハワイ・真珠湾への奇襲攻撃と英領マレー半島への上陸作戦で始まった太平洋戦争は、緒戦で石油などの資源が豊かなオランダ領東インド諸島などを占領。南西太平洋のラバウル、ガダルカナルなどへも支配圏を広げていった。

 しかし、42年6月にミッドウェー海戦で敗れ、空母や艦載機を多数失ったことで戦局が変わった。ガダルカナル島争奪戦で戦力を消耗して撤退し、44年7月にはサイパン島の守備隊が全滅。連合軍の攻勢の前に孤立した島々で守備隊の全滅が相次ぐなどして終戦に至った。厚生労働省によると、日中戦争(37年7月)以降の海外戦没者は約240万人に上る。

敵は飢餓 人が鬼に

 先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。

フィリピン戦線

フィリピンマップ 太平洋戦争開戦と同時に日本が攻撃を始め、1942年5月、全土を占領。米軍は44年秋から奪回作戦を開始した。レイテ沖やレイテ島の戦闘で日本軍は多くの空母や航空機を喪失。ルソン島などでは食料の補給が途絶え、兵士は山中での潜伏生活を強いられた。終戦後は分散した部隊への停戦命令が行き届かず、全軍が降伏するのに半年を要した。

ビルマ戦線

ビルママップ ビルマ(現ミャンマー)を通り、中国へと続く連合軍の物資補給路を遮断するために、日本軍は1942年1月、ビルマに侵攻。同年5月末に全土を制圧した。しかし、43年から連合軍の反撃が始まり戦いは激化。事態打開のためにインドの連合軍拠点を目指した「インパール作戦」も失敗に終わった。九州出身兵も6割以上が命を落としたとされる。

スマトラ戦線

スマトラマップ 旧オランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)のスマトラ島には、東南アジア有数の油田地帯・パレンバンがあった。日本軍は1942年2月、油田を損傷しないよう、落下傘降下部隊を投入、占領した。その後、米軍のフィリピン攻略に伴い、日本軍は石油の輸送ルートを失い、スマトラ島は戦争末期に孤立状態に追い込まれた。

それぞれの立場から

 戦場での日本人を連合軍はどんな視点で見ていたのか。戦後70年を前にした今も、戦没者の遺骨が海外に多く残されている問題を、私たちはどう捉えればいいのか。兵士や遺族、また戦場となったアジアの人々は、あの戦争にどんな思いを抱いているのか。識者や関係者に聞いた。

取材 佐藤倫之、木下悟、野中彰久、森井徹、丹村智子 グラフィックス制作 大串誠寿、茅島陽子 ウェブ制作 矢野由香(メディアプラネット)