戦後70年へ -証言をつなぐ-

誇らしく 町には熱気

中村 政夫さん(85)

中村 政夫さん(85)

 締め込み姿の若者が勇ましい掛け声とともに高良山に駆け上がった。たいまつが夕闇に浮かび、裸の体から湯気が立ち上っていた。開戦のニュースに町は盛り上がっていた。福岡県久留米市の旧国民学校6年の時のこと。大国・アメリカに緒戦で勝利し誇らしかった。

 その約2年後、志願して14歳で海軍無線通信学校に入った。級長で勉強も負けない自信があったのに、貧しくて旧制中学に進めなかった。軍隊で出世して友人を見返したかった。

 だが訓練は厳しく、胸膜炎で入院。私に内緒で呼ばれた父は、軍医に「3カ月の命」と宣言されたという。父は「第一線で名誉の戦死を」と懇願し、私の南方行きが決まった。退院した1944年5月、長崎県・佐世保を出港。ルソン島・バタンガスの基地に配属された。

 その後、体調は戻ったが、米軍の上陸作戦が始まった。爆発に巻き込まれた戦友が、私がいる無線室に逃げこんだことがある。全身、皮膚がはがれる大やけど。「熱い、熱い」と言うが、どうしようもなかった。

 劣勢でジャングルに逃げ、隊はバラバラ。虫やカエルを捕って飢えをしのいだ。敗戦を伝えるビラを拾って集落に出ると、ゲリラに蛮刀(ばんとう)で切りつけられた。頭に大けがを負って失神し、意識が戻ると十字架に縛り付けられていた。住民を集めた建物に日本軍が放火して皆殺しにしたことなど虐殺の数々を説明され、他の日本兵と並べられ処刑が始まった。「殺されるのも当然」と諦めた時、米軍が通り掛かって助かった。

 戦後長く、戦争を思い出すと体が震えた。米国のベトナム帰還兵などの心的外傷後ストレス障害(PTSD)と同じだろう。戦時中は、国のために命を投げ出すように洗脳された。だが、あんな残酷な戦争というものは起こしてはいけない。

(福岡県宗像市)


=2014/12/08付 西日本新聞朝刊=