戦後70年へ ~証言をつなぐ~

疎開 沖縄の悲劇

命懸け 九州目指す

 こんな絶望の七夕があっただろうか。太平洋戦争末期の1944年7月7日、サイパン島が陥落した。それはやがて現実となる、米軍の沖縄上陸、本土空襲の激化を意味した。知るはずもない沖縄の子どもたちはあの日、短冊にどんな願いをつづったのだろう。

「なぜ生かされた」9歳の重荷

対馬丸の平良啓子さん(80)

対馬丸沈没の夜の記憶をたどる平良啓子さん=沖縄県東村(撮影・岡部拓也)

対馬丸沈没の夜の記憶をたどる平良啓子さん=沖縄県東村(撮影・岡部拓也)

 小さな頭が並び、あどけないまなざしが一心にこちらを見つめている。「あの夜」の話に耳を傾ける子どもたちを前にするといつも、暗い海にのみ込まれていったいくつもの幼い命を思い出さずにいられない。

 太平洋戦争中の1944年8月22日、米軍の魚雷攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」の生き残りとして、当時9歳だった平良啓子さん(80)=沖縄県大宜味村=は、60年以上、語り続けている。

 「私があなたたちと同じ年頃だった時の話です。潮風が心地よい夜でした…」。長崎に向けて那覇を出発して2日目の午後10時すぎ。甲板で祖母の膝枕で休んでいた。「本土に行けば雪も電車も見られるかな」。祖母、兄と姉、いとこ、義姉と一緒に、修学旅行にでも行くような気分だった。

 ドスーン。突然の爆音とともに体が飛ばされ、祖母や兄を見失った。全長約136メートルの船体が炎を上げて一気に傾き、甲板に波が押し寄せた。助けを求める子どもたちの中に、いとこの時子さんを見つけたが、大波にさらわれた。「時子!」。暗い波間に白いブラウスが遠ざかっていった。2畳ほどの竹のいかだを見つけてよじ登り、振り返ると船は跡形もなく消えていた。祖母も兄も姉の姿も…。

 9人の同乗者とともに漂流が始まった。孤独と飢え、渇き、時折襲ってくるサメの群れ。夜が明けるたび、同乗者がひとりふたりと減っていった。

行くも残るも地獄

 沖縄戦が迫る中で行われた沖縄の学童集団疎開の背景にあった事情とは何か。そのとき、人々はどんな思いを抱いていたのか。そして、九州とともに疎開先となった台湾の現実はどうだったのか。日本の専門家2人に分析してもらうとともに、当時の台湾の状況を探った。

「琉球難民」台湾で生活苦

終戦後も一時留め置かれ

沖縄からの疎開者たちが暮らしていたという建物。今は空き家が多いが、バロック風の装飾は日本統治時代のままだ

 日本が太平洋戦争に敗れるより前、台湾は長らく「日本」であった。1944年の夏以降、この地は九州と共に沖縄からの疎開先とされ、石垣島や宮古島から1万人を超える人々が身を寄せた。避難生活は戦況の悪化につれて悲惨なものとなり、終戦後も一時台湾に留め置かれた疎開者は「琉球難民」とも呼ばれた。台湾の人々の記憶の中に、彼らの姿を尋ねた。

故郷に帰れる

 本土に疎開した沖縄の人たちは終戦後、列車や船で故郷を目指した。=いずれも1946年8月ごろ

国鉄雑餉隈駅
(現JR南福岡駅)

上:国鉄佐世保駅
下:佐世保市針尾港

鹿児島港

取材 佐藤倫之、木下悟、横尾誠、森井徹、丹村智子 グラフィックス制作 大串誠寿、茅島陽子 ウェブ制作 矢野由香(西日本新聞メディアラボ)