戦後70年 ~証言をつなぐ~

戦争の実相 報じず 戦意高揚を後押し

 70年前に終わった戦争中、新聞はメディアの主流だった。だが、軍部による情報統制を前に、事実を正しく伝えていたとは言い難い。積極的に戦意高揚に加担する「報国」の側面も徐々に強まっていった。1931年の満州事変から終戦までの間、西日本新聞と前身の福岡日日新聞、九州日報は何をどう伝えたのか。節目の紙面をなぞり、当時の報道を振り返ってみた。

  • ①1931年9月19日付福岡日日新聞号外

    ①1931年9月19日付
     福岡日日新聞号外

  • ②1936年2月27日付夕刊1面

    ②1936年2月27日付夕刊1面
     

  • ③1941年12月9日付九州日報夕刊

    ③1941年12月9日付九州日報夕刊
     

  • ④1945年6月24日付朝刊1面

    ④1945年6月24日付朝刊1面
     

「中国の仕業」疑わず

①1931年9月19日付福岡日日新聞号外

①1931年9月19日付福岡日日新聞号外

満州事変

 1931年9月18日、中国の奉天(現遼寧省瀋陽)郊外の柳条湖で始まった満州事変。福岡日日新聞は19日付の号外=①=で陸軍省からの一報を伝えた。
 〈暴戻(ぼうれい)なる支那(中国)軍は満鉄線を破壊し我が守備兵を襲ひ駆けつけたる我が守備隊一部と衝突せり〉
 関東軍の謀略が明らかになるのは戦後になってからだった。紙面に、中国の仕業とする軍の発表を疑う記事は見当たらない。
 それまで福岡日日新聞の論調は軍縮推進だった。17日付の社説では海軍の戦闘艦や航空母艦の全廃を求めており、事変当日も「戦艦廃止問題と英米」を掲載していた。満州事変を境に、福岡日日新聞を含め、軍縮推進を提唱していた多くの新聞が軍拡路線を支持する論調へと変わっていく。

1面トップは「空白」

②1936年2月27日付夕刊1面

②1936年2月27日付夕刊1面

二・二六事件

 1936年2月27日夕刊の1面トップは、福岡日日新聞=②上=、九州日報=②下=とも前代未聞の「空白」となった。前日の未明、陸軍青年将校らが首相官邸などを襲撃して大臣らを殺害した二・二六事件が起きている。
 戒厳令下、報道統制で削られたのだろうか。静岡県立大の前坂俊之名誉教授(ジャーナリズム論)は「降版直前で代わりの記事を探す時間がなかったか、あえて空白にして読者に重大事件発生を察知してもらおうというせめてもの抵抗だったかだ」と分析する。
 東京朝日、大阪毎日、読売の3紙に空白はない。九州の他の地方紙には見られるため、「通信社の配信記事が報道禁止になったと考えられる」という。鉛版をのみで削ったような跡が生々しく残る新聞もあった。

開戦を歓迎

③1941年12月9日付九州日報夕刊

③1941年12月9日付九州日報夕刊

真珠湾

 〈大本営陸海軍部発表【十二月八日午前六時】帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり〉
 九州日報は12月9日付夕刊1面=③=で、太平洋戦争の開戦を伝えた。海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はマレー半島に上陸作戦を決行した。福岡日日新聞も同日付の社説で〈一億国民が待ちに待った対米英戦争は開始された〉と評価した。
 開戦は軍の最高統帥機関、大本営による最初の戦況発表でもあった。以後、大本営発表は1945年8月26日まで846回あり、発表以外の戦況報道は厳しく制限された。

島民の「献身」を強調

④1945年6月24日付朝刊1面

④1945年6月24日付朝刊1面

沖縄戦

 沖縄戦で組織的戦闘が終わったとされる1945年6月23日。その8日前の朝刊に、海軍沖縄根拠地隊の大田実司令官が本土へ送った電文の内容を報じる記事が載った。
 見出しは〈沖縄全県民が挺身(ていしん)〉。記事では焦土と化してなお住民が軍に協力したことが強調され〈後世沖縄県民に対し特別の御高配有らんことを切望する〉と訴える。送信後に大田司令官は自決するのだが、触れられていない。
 司令官の報告により〈根拠なき浮説〉が晴らされたとも書かれている。沖縄県民は軍に非協力的だったという誤解が、本土の人々に根強かったことがうかがわれる。
 軍部は沖縄を「捨て石」とし、本土決戦までの時間稼ぎと位置付けた。連合国軍側も沖縄戦後に九州南部へ上陸するオリンピック作戦を立案していた。当時の沖縄の戦況を西日本新聞は連日、詳報している。迫る九州での地上戦。その危機感の表れだろうか。

  • ③1945年8月7日付朝刊1面

    ⑤1945年8月7日付朝刊1面

  • ④1945年8月10日付朝刊1面

    ⑥1945年8月10日付朝刊1面

  • ⑤1945年8月15日付特別付録

    ⑦1945年8月15日付特別付録

全滅でも「被害は僅少」

⑤1945年8月7日付朝刊1面

⑤1945年8月7日付朝刊1面

⑥1945年8月10日付朝刊1面

⑥1945年8月10日付朝刊1面

原爆

①1931年9月19日付福岡日日新聞号外

瞬時にして焦土と化し煙突1本のみ残った広島市街の一部。 1945年8月23日付の本紙2面に掲載された

〈B29少数機は六日午前八時二十分頃広島市に侵入焼夷弾ならびに爆弾攻撃を行って脱去した、損害目下調査中〉一瞬で数万人の命を奪った広島原爆の一報は、投下翌日の西日本新聞1945年8月7日付に、わずか49字=⑤。当時は広島に支局があったが、原爆にのみこまれ、永瀬岩男記者と事務員の片山イヤノさんが犠牲になった。49文字の記事は通信社の配信を使ったとみられ、同じ紙面の宇部(山口県)や今治(愛媛県)への空襲の記事に比べ、見出しも小さい。  以後、原爆報道は時代の流れに翻弄(ほんろう)されていく。
 投下から数時間後には、通信社を含む在京各紙の編集局長が政府情報局で会議を開催。陸軍の担当者が、大本営発表までは通常の都市爆撃と同じように扱うよう指導したとされる。その後、トルーマン米大統領が「これは原子爆弾である」と声明を発表した。それでも日本軍部は「新型爆弾」で押し通した。兵器の正体が分かれば、国民の戦意を奪いかねないと判断したのか。本紙8日付でも〈広島市侵入のB29新型爆弾を使用か〉と報じた。
 星野力編集局次長は8日の日記に〈気がかりなので社に寄ってみたところ果たして大変なものなり〉と記している。原爆の破壊力と被爆地の惨状は、実は本社に伝わっていたようだ。
 翌9日、原爆は長崎市にも投下された。星野日記には、その日のうちに佐賀支局から本社へ〈長崎市はほぼ全滅の様子〉との情報が入ったとある。それでも本紙は10日付の見出しで〈長崎市に新型爆弾/被害は僅少の見込み〉とした=⑥。

土下座写真 演出だった?

⑦1945年8月15日付特別付録

⑦1945年8月15日付特別付録

1945年8月16日付の朝刊に掲載された「やらせ」の可能性がある写真

1945年8月16日付の朝刊に掲載された「やらせ」の可能性がある写真

終戦の日

 全801文字。1945年8月16日の朝刊1面に終戦を告げる天皇の詔書が載った。紙面は狩野貞直整理部次長が徹夜で組み上げた。戦後の社報には「早版1面の大刷でトップ横見出しに『帝国、ポツダム宣言を受諾』とあったのを直したのが今でも深い感慨」とある。
 紙面は表裏2ページだった。正午の玉音放送が終わるまで配達してはならないとされた。戦争継続派の決起など、不測の事態を招きかねないとの理由からだった。
 詔書の下段には14日の御前会議の様子が盛り込まれた。〈朕の一身は如何にあらうともこれ以上国民が戦火に斃(たお)れるのを見るのは忍びない〉。降伏を決めた天皇の言葉に、全閣僚が号泣した場面が描かれている。
 この記事が一切削られて空白になった別の8月15日付紙面が存在していることが新たに分かった=⑦。
 東洋文化新聞研究所の羽島知之代表(80)=東京都目黒区が12、13年前、都内の古書店で見つけた。「特別付録」とあり、「記事が当局の指導に引っ掛かり、削って刷り直したのでは」と羽島さんは分析する。
 15日の国民の様子は翌日の朝刊に載った。〈永久忘れじ痛恨の歴史熱涙に拝す大御心〉の見出しに、土下座をした人々の写真が添えられた。説明文には〈宮城(皇居)前に国体護持を祈る赤子電送〉とある。
 実はこの写真、15日に撮影されていない“やらせ”の可能性が高いことが分かってきたじ写真が他の地方紙でも使われており、通信社が配信したようだ。17日付で掲載した東奥日報(青森県)の説明文には「十四日」とある。

戦時下の西日本新聞

 1877年に刊行された筑紫新聞を源流とする。その流れをくむ福岡日日新聞とライバル紙だった九州日報が政府による「1県1紙」の新聞統制を受けて合併し、1942年8月から西日本新聞を発行。一時は九州や山陰地方のほか、旧満州(中国東北部)、朝鮮半島、台湾でも販売された。最盛時は朝夕刊で計16ページあったが、戦局が進むにつれて紙不足が深刻になり、44年10月から常時、朝刊のみ2ページとなった。

取材 下崎千加、坂本信博、塩入雄一郎、福間慎一、本田彩子 ウェブ制作 矢野由香(西日本新聞メディアラボ)