天安門事件
1989年4月15日に改革派指導者、胡耀邦元中国共産党総書記が死去したことをきっかけに、官僚腐敗打倒などを叫ぶ学生らの民主化要求デモが発生。党機関紙の人民日報社説が「社会主義制度を否定する動乱」と決め付け、運動が激化。指導部は5月20日に戒厳令を布告、6月4日未明に天安門広場を武力制圧した。当局発表の死者数は319人。政治改革を唱えていた趙紫陽総書記は「動乱を支持した」として失脚。今なお中国本土では事件に関する書籍出版はなく、厳しい言論統制が敷かれている。
(2009年5月31日掲載)
1989年4月に死去した胡耀邦元総書記の追悼集会を契機に、学生らが大規模な民主化要求運動を展開し、北京中心部の天安門広場を占拠した事件。1976年に天安門広場で起きた民主化運動と区別するため、第2次天安門事件とも呼ばれる。 対話による解決を主張する趙紫陽総書記らと、武力制圧を唱える拳小平氏らの長老グループが対立するなど党指導部の権力闘争に発展したが、趙氏が失脚。指導部は6月3日未明から4日にかけて人民解放軍を投入し、発砲によって天安門広場を制圧した。当局の発表によると、死者は319人とされるが、これをはるかに上回る死傷者が出たとみられている。
(2006年1月30日掲載)
1989年4月の胡耀邦元中国共産党総書記の死をきっかけに起きた学生らの民主化要求デモを、中国人民解放軍が武力弾圧した事件。天安門広場に集結した学生はハンストを実行。対応をめぐり指導部内は「愛国的運動」として学生らと妥協しようとした趙紫陽総書記(当時)と、「動乱」と断じた保守・長老派が対立。同派の主導で5月20日、北京に戒厳令を布告。軍が戦車などで6月3日夜から4日にかけて天安門広場に突入、制圧した。死者は当局発表では319人とされたが、正確な数は不明。西側諸国は非難し、制裁を決定した。
(2005年1月17日掲載)
1989年4月の胡耀邦・元総書記の死去をきっかけに民主化を求める学生運動が広まり、北京の天安門広場に座り込んだ学生を排除するため6月3―4日にかけて人民解放軍が武力を行使した事件。多数の死傷者が出たが正確な人数は不明。民主化運動は同年5月のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長訪中で過熱、収拾がつかなくなり5月20日に北京市に戒厳令が出されて軍が出動。中国と西側諸国との関係は冷却化したが、90年1月の北京市の戒厳令解除をきっかけに日本が改善に乗り出し、円借款凍結を解除した。
(2003年11月7日掲載)