昭和流行歌編<154>松平 晃 同窓の異才の作曲家

松平と同窓だった池田
松平と同窓だった池田
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 流行歌の創生期である昭和一けたの時代は大小のレコード会社が群雄割拠していた。松平晃はニットー、タイヘイなどいくつかレコード会社で芸名を使い分けながら吹き込み料を稼いでいた。この中の一つにパロルフォンがある。松平はこの会社から1932(昭和7)年に「鯨取り」というレコードをリリースしている。作曲者は原野為二だ。

 井上ひろしの「雨に咲く花」がヒットしたのは1960年のことだ。

 〈およばぬことと 諦めました だけど恋しい あの人よ…〉

 この曲は1935年の作品のカバーで戦後のリバイバルブーム、懐メロブームの火付け役になった。この作曲者の池田不二男のペンネームが「原野為二」である。名付け親である作詞家の奥山靉(あい)は次のように記している。

 「レコードの仕事はめしを食う事にあるので、腹の為だから『原野為二』にしろときめてしまった」

 池田には「金子史朗」というペンネームもある。これは「金を拵(こしら)えろう」をもじったものだ。一種、自虐的なユーモアだ。

 池田は「池上敏夫」という名前も使っている。松平の芸名に「池上利夫」がある。読みは同じで漢字は一字違い。多分、これは二人が「似たような名前にしようか」と面白半分で決めたのではないだろうか。気心の知れた二人の交流が浮かび上がる。なぜなら二人は旧制佐賀中学の同窓生だった。

   ×    ×

 池田は松平の6年先輩で、東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)を卒業後、パロルフォンからこの会社を吸収した日本コロムビアに移った。作曲家兼ディレクターだった。

 戦前の流行歌の作曲は古賀政男、江口夜詩を中心に回転していくが、池田はそれに伍する作曲家だった。ディレクターとしても有能で、作曲家の服部良一を見いだしたのは池田である。また、北海道・函館で新聞社の社会部長をしていた「酒は涙か溜息か」「雨に咲く花」などの作詞家、高橋掬太郎を上京させたのも池田の熱意だった。高橋は次のように記している。

 「私の胸底に最もなつかしく浮かぶのは池田不二男の面影…私の作詞を特に好んで作曲してくれた。実に抒情的ないい曲を作った男…彼のために詩を作ることを無上の歓びとし…」

 この池田と松平の旧制佐賀中コンビは1936年に「花言葉の唄」(作詞・西条八十)をヒットさせる。

 〈可愛い蕾よ きれいな夢よ 乙女ごころに よく似た花よ〉

 池田はこの後、結核のために福岡で療養生活を送る。数々の名曲を残して、戦争中の1943年に38歳の若さで静かに息を引き取った。

 松平は1961年に死去するが、その葬儀で参列者が合唱したのは「花言葉の唄」だった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2013/04/09付 西日本新聞夕刊=

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