民謡編<288>炭坑節(中)

田川市石炭記念公園内にある碑「炭坑節発祥の地」
田川市石炭記念公園内にある碑「炭坑節発祥の地」
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 採譜、録音など炭坑唄(うた)の研究、普及に生きた福岡県田川市の小野芳香は1951年、突然、「炭坑節は私が作曲した」と公表した。小野は自著『田川地方 民謡・童謡研究集』(葦書房刊)の中でその経緯を記している。

 「民謡は作詞・作曲者は不明にしておくことが民謡の価値を高め、ゆかしさが強くなるものであり、一面その民謡が有名になればなるほど、もし作曲者が不名誉な行為をした場合、それが民謡に対し疵(きず)つけることになるを恐れ、以来決して作曲者であることを発表しないと決心していた」

 こう考えていた小野があえて公表に踏み切った理由について語っている。

 「各所から作曲者だ、とレコードに吹込み発表したり、又(また)ラジオ、雑誌等で、三池炭坑で古くから歌われていた炭坑節だと発表されるに至っては、その真意を発表することを決心する」

 戦後、炭坑節は「復興は石炭から」という石炭増産の国策も背景にあって、爆発的に広がった。小野が「有名になればなるほど」と言うように、一種の有名税として作曲者、本場論争が持ち上がった。

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 炭坑節の元歌は田川地方の選炭節というのが定説だ。選炭とは石炭とボタをえり分ける作業のことで、主に女性が担った。歌詞も本来、女性を主体にした女唄だ。

 現在、歌われている躍動的で明るい炭坑節に比べて選炭節は哀愁を帯びた、ブルースのような少しゆったりとしたリズムだ。小野は1910(明治43)年、勤務していた小学校の児童に「(選炭節を)一部改曲して試唱させた」と書いている。

 田川市石炭・歴史博物館の副館長、森本弘行は「炭坑節の作詞、作曲者は無名の炭坑労働者たちです」と言う。民謡の本来の形だ。つまり、小野はばらばらな歌詞や微妙な調子、節回しの違いを整理してスタンダード曲としての素地を作った人だといえる。作曲者というより、編曲者といえるかもしれない。周囲が語るように炭坑節の「生みの親」であり、「炭坑節生誕の最大の功労者」であることは言うまでもない。

 選炭節がいつ炭坑節へと名を変えたのかは定かではない。選炭節がレコード化されるのは32年だ。同市後藤寺にあった検番の芸妓(げいぎ)が吹き込んだ。このときの曲名は炭坑唄になっている。それがいつしか炭坑節と呼ばれるようになった。

 専門用語の選炭節から一般に理解しやすい炭坑節へ。曲名、調子の変化は作業歌から座敷歌、盆踊り歌へと坑外へ広がっていくプロセスと重なり合う。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2016/05/02付 西日本新聞夕刊=

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