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フォーク編<354>大塚博堂(6)

「博多で歌を学んだ」と語った大塚博堂
「博多で歌を学んだ」と語った大塚博堂
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 父親の死によって自立への道を歩み始めた23歳の大塚博堂は、1967年、故郷の大分県のJR別府駅から博多に向かう列車に乗った。指導を受けていた別府市のジャズメンの紹介状を持って訪ねた先が福岡市・春吉のクラブ「絹」だった。ここでクラブ歌手としてプロの道を一歩、踏み出した。

 「当時、周りにはジャズが好きな人がたくさんいて、最高に勉強になった。歌を学んだのは博多です」

 博堂はこのように周辺に語っている。ただ、博堂自身、博多時代をあまり多くは語っていない。博堂のよき理解者であったすぐ上の兄である大塚俊英は「博堂は風になった」(82年、日之出出版)を刊行しているが、この中でも簡単に触れているだけだ。

 博堂が「歌を学んだ」博多での音楽生活はどのようなものであったか。それを追う前に、博堂が身を置いた70年前後の中洲の音楽シーンを知る必要がある。今、振り返ればミュージシャンにとって輝ける神話ともいえる時代だった。

   ×    ×

 博堂のバックで演奏したことのある福岡市のベーシスト、川上俊彦(77)は「夢のような時代でした」と語る。川上だけでなく、当時、中洲で演奏していたミュージシャンはだれでも同じように回顧する。

 米軍の空襲によって焼け野原状態の中洲にいち早く生まれたのが、ダンスホールやキャバレーだった。店ではフルバンドやコンボのミュージシャンを抱えていた。60年代の最盛期には中洲とその周辺にはキャバレーだけでも20軒近くあった。これに後発のクラブなどを加えると生の音楽を提供する店は数十軒にものぼっただろう。川上は語る。

 「500人近いミュージシャンが生活していたと思います。それでも足りないので、ミュージシャンはほとんど掛け持ちをしていました」

 ジャズ、ブルース、タンゴ、歌謡曲…。不夜城の中洲で、夜ごと多様な音楽が鳴り響いていた。その黄金時代も終わりが来る。80年代のカラオケの登場によって、バンドマンたちは次々と職を追われることになる。

 中洲の全盛期にはバンドマンの職を求めて他県からも多くの人がやってきた。博堂は500人の中のバンドマンの1人として、ステージに立った。「すごい歌手がいる」。音楽仲間たちの中でも徐々に博堂の名前が知れ渡るようになる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/10/23付 西日本新聞夕刊=

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