フォーク編<367>大塚博堂(19)

ツアー仲間と。後列左から2人目が大塚博堂(1978年)
ツアー仲間と。後列左から2人目が大塚博堂(1978年)
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 福岡市の山中サトシ(70)が博多のクラブ「長島」で演奏中に1本の電話が店に入った。山中はギターの手を止めて、その電話に出た。

 「大塚です。サトシちゃん、東京に出てこんね」

 大塚博堂からの誘いの電話だった。初のアルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で、徐々に博堂の名前が知られるようになった1977年ごろだ。

 山中は「長島」でかつて博堂のジャズバンドに入っていた、気心の知れたジャズ仲間だった。山中は1カ月後に上京した。

 「東京で勝負してみたいとの野心がありましたから、この誘いはありがたかったです」

 渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属し、博堂のツアーに同行する。

 「ナベプロの事務所に行くと、そこでラーメンを食べていたのがジュリー(沢田研二)、下の喫茶店に行くと大原麗子(俳優)がいた。びっくりしました」

 山中はこう語る。ナベプロは歩合制ではなく、給料制だった。博多時代の報酬に比べれば半分近く減ったが、博堂とツアーで回れることはそれ以上の魅力があった。

   ×    ×

 博堂の76年のツアーは約50回。77年には100回近くになる。当初は博多時代に知り合った岩村義道と2人で回っていたが、山中が加入し、さらに博堂を含め6人のバンド編成になる。レコードの売り上げも伸び、ナベプロは博堂の売り出しに力を入れ始めた。加えて、弾き語りのフォークはギター一本ではなく、多くはバンド編成に変化していく時代の流れも背景にあった。

 博堂のバンド名は「スクランブル・ダスティン・バンド」。ツアーの移動は博堂だけがグリーン車だった。しかし、博堂はバンドメンバーの普通車に来て、いつも一緒に酒を飲んだ。山中は「大塚さんはグリーン車には座らなかった」と言うように、バンド仲間との融和を大切にしていた。

 山中は博堂が81年に37歳で急死するまで「スクランブル・ダスティン・バンド」で約5年間、ギターとフルートを担当した。

 「私も大塚さんも楽しみにしていた九州ツアーの1週間前の出来事でした」

 山中は今でも現役のミュージシャンだ。中洲のライブバー「おじゃま虫」などでギターを弾いている。最近、お客さんから「歌いたい」と、博堂が作曲した「めぐり逢い紡いで」のリクエストがあった。その曲を弾きながら、博堂と旅したツアーを思い返すのだった。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/02/05付 西日本新聞夕刊=

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