フォーク編<368>大塚博堂(20)

「博堂村」にあるゴールデンディスク賞の盾
「博堂村」にあるゴールデンディスク賞の盾
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 大分県別府市のJR別府駅前にあるライブバー「博堂村」には大塚博堂の遺品が並んでいる。その中に、レコード会社がよく売れたレコードを表彰するゴールデンディスク賞の盾や賞状がある。二つの盾は博堂のファーストアルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年)とサードアルバム「もう少しの居眠りを」(78年)だ。

 「盾は4、5個もらったと思いますが、ここにあるのはこの二つだけです」

 店のマスターである博堂の甥(おい)の大塚義則(65)はこう語る。また、賞状には「ロングセラー賞」として次のように記されている。

 「デビュー以来、今日までアルバム、カセット120万枚を越えるセールスを記録されました」

 賞状の日付は博堂の没後3年の84年だ。この盾と賞状は人気シンガーとしての履歴の一端である。78年にはテレビの音楽番組「夜のヒットスタジオ」に出演し、「哀しみ通せんぼ」を歌っている。メディアへの露出も多くなった。

 博堂の甥で義則の弟の大塚郷は78年ごろ、博堂と一緒に東京・新宿を歩い
たことがあった。

 「道行く人が『あの人は大塚博堂じゃないか』と言うのを聞いて、人気シンガーになったんだ、とそのとき思いました」

   ×    ×

 博堂が世に出たのは自分の作曲の才能、歌唱力もあるが、藤公之介という詩人、作詞家との出会いである。「博堂伝説」(大塚博堂、藤公之介著)にはこうある。

 「出逢いの日から、二人の歌作りが始まった。二つの青春が、二つの人生が触れ合って、そこにやさしさと温かさにあふれた歌が生まれて行った」

 博堂の出世作「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」は藤の作詞だ。藤は地元、大分のテレビ局が制作した博堂の回顧番組の中で次のように語っている。

 「(ダスティン・ホフマンは)そんなに美男子でもなく、すらっと背が高いわけでない。ハリウッドスターの姿、形とは真反対でしたが、大きいものに負けない情熱でハリウッドで活躍する。大塚博堂にオーバーラップするものがあり、ホフマンのように大きく花開いてもらいたい気持ちがありました」

 博堂と藤はセカンドアルバム「過ぎ去りし想い出は」までコンビを組んでいる。博堂作品の中の大きな花の一つは「めぐり逢い紡いで」(78年)である。藤に次ぐ新しい作詞家との出会いによって、博堂はさらにステップアップする。
 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/02/19付 西日本新聞夕刊=

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