フォーク編<370>大塚博堂(22)

大塚博堂のファンだった高倉健(1977年、福岡市内)
大塚博堂のファンだった高倉健(1977年、福岡市内)
写真を見る

 俳優の高倉健(故人)は大塚博堂のファンだった。1984年、東京で博堂三回忌の追悼集会があり、高倉は文章でメッセージを贈っている。

 「『旅でもしようか』『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』。特に2曲がとっても好きでした。丁度この曲が街に流れ始めた頃、私も個人的にこの歌に共感できる心境でした…男が男でいるための哀しさがとっても好きで、今でも時々聴いております」

 高倉は友人からカセットテープをもらって、博堂を知った。聴くだけではなかった。博堂の甥(おい)の大塚郷は博堂から聞いたことがあった。

 「高倉さんから藤公之介さん(作詞家)を通じて曲作りを依頼されていたと話していました」

 高倉は「網走番外地」「望郷子守唄」など多くの歌を歌っている。作曲・大塚博堂、歌手・高倉健。この組み合わせは互いの多忙さや博堂の急死などもあって実現には至らなかった。博堂も高倉の映画を観(み)ていた。81年の新聞記事には博堂の言葉としてこうある。

 「多くを語らなくても意思の伝わる健さんこそほんものの役者だ」

 同じ九州出身で、寡黙でストイックな高倉の世界に自分を重ね合わせた部分もあっただろう。

   ×    ×

 シンガー・ソングライターとして知られるようになった博堂には作曲の依頼も次々に舞い込んだ。ペギー葉山、日吉ミミ、桃井かおりなど20人近くの歌手、俳優に曲を提供している。また、化粧品会社のCMソング、NHKのFMのイメージソングに採用されるなど、活躍の場を一気に広げた。

 異色なのは俳優としてテレビドラマに出演した。79~80年放送の「ちょっとマイウェイ」で、桃井かおりの元恋人役だった。ニューヨーク帰りのジャズピアニストを演じている。郷は語る。

 「ドラマの収録時、緊張している叔父(博堂)に、桃井さんが、気持ちが落ち着くようにいろいろとアドバイスをしたようです。叔父はこれを機会にいろんなドラマにも出演してみようかな? と私に言っていました」

 博堂は32歳の、遅咲きのデビューだった。時を取り戻すかのように、生き急いだ。体調を心配した仲間が「少し、休んだら」と声をかけたが、聞かなかった。

 最後のアルバムは全作詞を阿久悠(故人)が担当した「感傷」(81年)だった。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/03/05付 西日本新聞夕刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]