フォーク編<376>とべない飛行船(3)

放送中の林田スマ(1970年ごろ)
放送中の林田スマ(1970年ごろ)
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 「市内の片江の早苗さんにプレゼント。彼女の一番好きな曲、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』をリクエストします」

 1969年にスタートしたRKB毎日放送(福岡市)のラジオ番組「スマッシュ11(イレブン)」の2代目アシスタントだった林田スマ(現・大野城まどかぴあ館長)は当時の投稿はがき、封書など数百枚を手元に残している。冒頭のリクエストはがきはその1枚だ。

 ディレクターだった野見山実は聴取者からの投稿は「一日、5百枚くらいあった」と言う。かまぼこ板に書いたものや精密なイラスト入りなどさまざまだった。林田は言う。

 「読み上げてもらうために、目立つように工夫を凝らした投稿がたくさんありました」

 投稿量は番組のバロメーターだ。圧倒的な人気を背景に林田自身も一種のアイドルになる。放送局の前には入り待ち、出待ちの林田ファンが人垣を作った。野見山は次のように語る。

 「大牟田(福岡県)でプロの歌手を招いてイベントをしましたが、お客が殺到するのは林田の方でしたからね。困りました。当時、大人はテレビ、若者は深夜ラジオという形でしたね」

 林田は現在、当時のリスナーたちとの交流会「深夜放送同窓会」を年1回、開いている。ラジオを通じた結びつきの深さを知ることができる。

   ×   ×

 針尾清が野見山に頼み込んで、はがき整理のアルバイトをしたのは週に2、3回。番組前の午後4時ごろから約2時間の作業だった。リクエスト曲、情報別などに選別した。時給は100円。仕分けされたはがきを林田も目を通し、パーソナリティーの井上サトルと読み上げた。針尾は新車が当たる応募はがきの多さに驚いたこともあった。

 「はがきに穴をあけ、針金かヒモで通した。長さ約5メートルのはがきの列が数列できました。その抽選風景は生で放送されました」

 ラジオはフォークブームの火付け役であり、メジャーデビューへの登竜門でもあった。例えばザ・フォーク・クルセダーズのシングルレコード「帰って来たヨッパライ」(67年)だ。ラジオを通じて爆発的なヒットになった。

 スマッシュ11にはアマチュアの曲をテープで流すコーナーもあった。針尾と同じように、野見山のところへボサボサの髪、ジーンズ、ゴム草履履きの男が自作のテープを持って、突然、訪ねてくるのは69年4月16日の深夜だった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/04/16付 西日本新聞夕刊=

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