フォーク編<382>とべない飛行船(9)

チューリップのツアー後の打ち上げ会(左端が針尾清、1973年)
チューリップのツアー後の打ち上げ会(左端が針尾清、1973年)
写真を見る

 福岡市・天神のフォーク喫茶「照和」がオープンするのは1970年である。ライブが終わると、午後11時にビルのシャッターが降りる。中にいれば朝まで缶詰め状態になる。この地下の夜の空間は出演者たちにとっては格好の練習場所であり、メディアへ売り込むためのデモテープを作る臨時の録音室でもあった。

 「照和」の初期を引率するのはチューリップだ。美しいメロディーとハーモニー。甲斐よしひろは自著「九州少年」の中で次のように記している。

 「照和ができた頃、博多で人気絶頂だったチューリップは東京に行く準備態勢に入っていたが、なかなか話が決まらずに焦(じ)れている風だった」

 また、甲斐はチューリップのステージを見た印象も同書で書いている。

 「(チューリップが)プロになれなかったら、この街の人間すべてにチャンスはないと思える出来だった」

 チューリップのリーダー、財津和夫は「照和」で制作した「魔法の黄色い靴」のデモテープをレコード会社「東芝EMI」のディレクターに届けた。71年11月、北九州市・小倉市民会館でのコンサートからまもなくのころだ。

   ×    ×

 翌年早々、楽譜出版やマネジメントなどを手がける「シンコー・ミュージック」からチューリップに声がかかり、専属アーティストになった。北九州市の針尾清も財津から「一緒に来ないか」と誘われて上京、マネジャーになる。針尾は語る。

 「きっかけになったのはデモテープですが、それには物語があります」

 届けたテープはディレクターの机の中に10日ほど眠った。ディレクターと親交のあるシンコー・ミュージックのスタッフの手元へ渡った。そしてまた、そのスタッフの机の中でしばらく眠った。

 シンコー・ミュージック内で新人発掘会議があり、いくつかのテープが試聴された。だが、決まらない。スタッフがチューリップのテープがあることを思い出し、会議で回した。針尾は「こうした流れでチューリップに決まったと聞きました」と語る。チューリップはその年の6月に、「魔法の黄色い靴」でメジャーデビューを果たした。だが、続く「一人の部屋」とも売れなかった。井上陽水と同様に、デビューはしたものの、窮地に立たされた。背水の陣。その崖っぷちから生まれたのが73年の「心の旅」だった。

 「世に出るには才能、努力のほかに紙一重の運命的なものがあるような気がします。時代に選ばれた人と言えるかもしれません」

 陽水、チューリップをそばで見てきた針尾はしみじみと回想した。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/06/04付 西日本新聞夕刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]