フォーク編<384>とべない飛行船(11)

「ヴィレッジ・ボイス」を創設した山本良樹(右)
「ヴィレッジ・ボイス」を創設した山本良樹(右)
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 福岡市・須崎公園の野外ステージを拠点にして活動していたフォーク愛好会「ヴィレッジ・ボイス」は1968年に結成された。同年にはTNCテレビ西日本の藤井伊九蔵の企画による「レッツ・ゴー・フォーク」が同市・中洲の明治生命ホールでスタートしていた。共に月1回。野外と屋内の違いはあるが、定期的なライブの場だった。

 「ヴィレッジ・ボイス」の創設者の一人である山本良樹=千葉市在住=は次のように語る。

 「音楽は定期的に同じ場所でライブをすることで、出演者も増え、人も集まり進化していく。この二つのイベントがフォーク喫茶『照和』の開店への流れを作ったと思います」

    ×   ×

 山本は学生時代、バンドを組み、TBS系のテレビ情報番組「ヤング720」に出演した。そのために福岡から上京したとき、番組のスタッフから「東京ではフォーク好きな若者たちが愛好会を作り、自主的に活動しています」と聞いた。

 「これが愛好会を作る大きなヒントになりました。ヴィレッジ・ボイスの名前は村と声という意味です」

 最初は7、8バンドからのスタートだったが、回数を重ねるうちに参加するバンドの数は増えていった。その一つが海援隊である。武田鉄矢は自著「母に捧げるバラード」の中で入会時の様子を書いている。高校時代の同級生2人と顔を出し、山本に入会を申し込んだ。

 「(山本は)うんうんと小気味よくうなずき、公演に散らばっている仲間たちを呼び集めてくれた」

 バンド名は「ヤングラディーズ(若者たち)」。この名前について山本は武田の方を見ながら言った。

 「昨日、江戸時代から出てきたような男がいるのに……どう考えてもこの人はヤングじゃなかよ」

 改名を任された武田は心酔している坂本龍馬の結社である海援隊を選んだ。山本は当時の海援隊の印象について次のように話した。

 「音楽漫才みたいな感じでしたね。だから出番のときのイントロのテーマ曲を作って贈りました」

 〈海援隊が行く 僕らの夢を乗せて…〉

 武田はその日の日記に「海援隊、出港。大海原をめざす」と記した。

 山本は「面白いバンドがいる」と、藤井に推薦した。海援隊は「レッツ・ゴー・フォーク」のステージにも立ち、活動を活発化していく。山本は次の会長に武田を指名し、卒業のためにこの会から離れた。

 「ヴィレッジ・ボイス」は69年に「村声一揆」(全4曲)という自主制作盤をリリースした。山本や海援隊など、吹き込んだメンバーが費用を分担した。音源はディレクターの野見山実に頼んで、RKB毎日放送内で録音した。

 「照和」の開店もあって、会の活動は72年ごろに終わった。この年、海援隊はチューリップの後を追うように上京する。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/06/25付 西日本新聞夕刊=

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