フォーク編<385>とべない飛行船(12)

ビルの屋上で練習する「とべない飛行船」
ビルの屋上で練習する「とべない飛行船」
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 北九州市の針尾清が5人編成のフォークバンド「とべない飛行船」を結成したのは1975年である。すでに、福岡から井上陽水、チューリップ、海援隊、甲斐バンドがプロデビューを果たしていた。

 針尾はこうしたバンドと交流を持ち、とりわけ、チューリップのマネジャーとしてその成長物語を身近で経験していた。

 「自分も新しいバンドで絶対にやれるという確信めいたものがありました」

 当時、フォークという新しい若者文化の登場で、「フォークドリーム」が存在した。そこには「一発当てる」といった野心もあったに違いない。それと同時に新しい音楽の潮流に参加したい、参加している、という同時代意識が強く作用していたともいえる。

 「メジャーになった人も最初は4、5年やれればいいと思っていたはずです。多分、一生、フォークを続けていこうとはほとんどが思っていなかった。ビートルズのように、瞬間でもかっこいい存在になりたかった。先のことを考えるより、今やりたいことをやる。その気持ちの方が大きかった」

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 針尾は熊本市からメンバー4人を地元の小倉に呼び寄せ、合宿生活を始めた。ビル7階の1フロアを家賃4万5千円で借りた。二段ベッドをいくつか置き、食事は自炊だ。当番で担当した。針尾がまず、取った方法は全員の就職活動だった。

 「経済的な安定もありましたが、社会人としての礼儀作法を学ぶことも必要と考えました。それに音楽がダメでも生きていけるように思ったからです」

 看板店、印刷所、電気工事店…。主に営業だった。昼間の顔はサラリーマンだった。必要経費は各自の給料から出し合って、まかなった。昼間、働き、夜や休日は部屋や屋上で練習した。曲作りもあった。体力づくりのため毎朝、7時からの体操、ランニングも欠かさなかった。ある意味、ストイックでハードな生活だった。

 「バンドが少し知られるようになるとファンが料理したり、差し入れも増えたりしました」

 昼と夜。二つの顔の生活は約1年、続いた。

 「その生活に疲れたことや、ようやく音楽だけでどうにか食べていけるめどが立ったことで、昼間の仕事は辞めました」

 音楽に専念、とは言っても、コンサートの前座やイベント会場での演奏だった。声がかかるのは数カ月に1回のときもあった。生活費は1日、5人合わせて1500円。

 「1日3食、ラーメンの日がよくありました」

 とべない飛行船の名前が徐々に広がっていくのは定期的に開いていた地元での野外コンサートだった。その地道な活動が「とべひこ」との愛称で呼ばれることになる。「とべひこ」は街頭から生まれた。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/07/02付 西日本新聞夕刊=

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