フォーク編<388>とべない飛行船(15)

とべない飛行船のメンバー
とべない飛行船のメンバー
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 北九州市のフォークバンド「とべない飛行船」がキャニオンレコードと契約を結ぶのは1978年の12月のことだ。アマチュアながら同市・小倉市民会館を満員にしたコンサートから約2カ月後である。他のレコード会社からもオファ-があったが、同社を選択した。リーダーの針尾清は次のように語る。

 「条件がよかったからです。経済的なバックアップだけではなく、当時、キャニオンレコードは有名ミュージシャンを抱え、勢いのある会社でしたからね」

 年が明けた79年、東京にある同社のスタジオで録音に入った。1週間かけて録音し、その3月に初めてシングル盤としてリリースされたのがデビュー作「あの頃、青春…」である。1万2千枚をプレスした。

 メンバーはファンに人気のあった「サマー・エンジェル」を希望した。しかし、キャニオン側は「あの頃、青春…」を推した。結局、バンド側が譲歩した。今から振り返って針尾は言う。

 「このとき、もっと自分たちの意見を主張しておけばよかった」

 それでもこの年は立て続けに計3枚のシングル盤を制作した。

 とべない飛行船の特徴は拠点にしていた北九州市から離れないことだった。九州から発信していくこと。これを信条にした。全面的に協力したRKB毎日放送(福岡市)のディレクター、野見山実とバンドメンバーが話し合って決めた路線だった。

 「地方で活動したあと、上京してメジャーになっていくという定型、方程式を破りたい、との思いがありました。野見山さんも同じ考えでした」

 地方を拠点にしながら全国的なバンドになる。それがとべない飛行船が目指した着陸点だった。

   ×   ×

 プロデビュー後は当然、ステージやメディアでの出演も増え、順調に飛行していた。バンドの宣伝にも力を入れた。防火キャンペーンとして北九州から熊本までメンバーが走り継ぐマラソンなどを行った。

 「メディアが大々的に取り上げてくれました」

 バスハイクなどファンとの交流会も忘れなかった。そういった多彩なイベントも重ねた。

 「コンサートはどこでも満員だし、バンド生活は本当に楽しかった」

 ただ、順調ゆえに油断、隙もあった。針尾は79年末ごろから観客動員数が少しずつ減っていることに気付いた。

 「バンド生活を楽しみすぎて、曲、作品作りがおろそかになった面がありました」

 とべない飛行船の高度が下がり始めた。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/07/30付 西日本新聞夕刊=

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