フォーク編<389>とべない飛行船(16)

新人時代の長渕剛(1978年、福岡市の西日本新聞社)
新人時代の長渕剛(1978年、福岡市の西日本新聞社)
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 1970年代のフォークシーンは福岡市・天神のフォーク喫茶「照和」をなくしては語れない。その照和と北九州市のフォークバンド「とべない飛行船」は交差している。リーダーの針尾清は照和が70年に開店した当初、ステージに立っていた「チューリップ」のファンとして出入りしていた。バンドとして出演するのは76年である。

 「お世話になっている人を介して出てみないか、と言われました。北九州市で固定ファンもできていたので、それほど積極的な出演ではありませんでした。オーディションもありませんでした」

 76年といえば、すでに照和からチューリップ、海援隊、甲斐バンドが上京していた。その空白を埋めるように登場するのが鹿児島市からやって来た長渕剛である。長渕は自著「俺らの旅はハイウェイ」の中で次のように記している。

 「(照和は)アマチュア連中にとっては憧れの舞台。もちろん、夢は俺も同じだった。福岡に出てきた目的も半分は照和に出たいってことだったからね、最初から狙いを定めていた」

 照和があったから福岡の大学に進学した。長渕に限らず、同じような選択をした県外からの若者は少なくなかった。それだけ、照和は求心力があった。

 長渕は照和のオーディションを受けて合格した。そのときの喜びをこのように表現している。

 「うれしくてうれしくてたまらない。もうそこいら中を転がりまわりたいくらいうれしかった。友達とか仲のいいやつ、もう片っぱしから電話して知らせまくった」(同書)

   ×    ×

 とべない飛行船と長渕は一時期、曜日は違うが、共に照和のステージに上がっていた。針尾は何度も長渕のステージを客席から見ている。

 「音程がしっかりしていたことが印象に残っています」

 長渕は76年、ヤマハの「ポプコン」(ポピュラーソングコンテスト)の本選でレコード会社協賛賞を取り、翌年、受賞作の「雨の嵐山」でプロデビューした。しかし、ヒットせずに東京から「わずか三か月にしてスゴスゴ引き揚げて来た」(同書)。照和のステージに戻り、再スタートした。

 「レコードを出していたにもかかわらず、出戻り当時は以前と同じ、客も入らず、照和でも二線級のタレントだった」(同書)

 照和の客数で言えば、とべない飛行船の方が上だった。針尾は言う。

 「いつも約40人はいましたからね。長渕さんより多かったです」

 長渕は78年、この年のポプコンに出場し、「巡恋歌」で入賞、その曲で再デビューを果たす。とべない飛行船は79年にプロデビューするが、両者のその後の軌跡は正反対だった。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2018/08/06付 西日本新聞夕刊=

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