フォーク編<411>永井龍雲(14)

リハーサル中の龍雲(左、1989年ごろ)
リハーサル中の龍雲(左、1989年ごろ)
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 永井龍雲は1992年に、「一般旅行業務取扱主任者」の試験に合格している。異色の履歴ともいえる。これについて龍雲はこのように語る。

 「音楽以外の自分に合った仕事は、とふと考えたとき、この資格を取得しようと思った」

 母が台湾旅行中の74年に、旅先で急死した。当時、日本は台湾とは国交断絶の時期で、迎えに行こうとしてもビザの発給などが制限されていた。

 「その時、親身になって手配してくれた旅行会社の方が印象に残っていた」

 誰しも別の人生を夢想することはある。ただ、実際に資格まで取得する行動に潜在するのは、切迫感だ。

 「音楽の道しかない」

 こう思いながらもその道を継続させていくことは生活、作品を含め常に厳しさがつきまとう。龍雲は感情を露(あら)わにするタイプではないが、旅行業の資格は平坦(へいたん)な道ではなかった苦悩の痕跡でもある。

   ×    ×

 龍雲の音楽史を大枠で区分すれば1期が「道標(しるべ)ない旅」などの福岡時代だ。2期は「暖簾(のれん)」などがヒットした東京時代。3期は40歳を過ぎた99年の沖縄移住以降となる。

 「子どもの養育環境を考えてということも大きいが、結局はより良い歌作りを目指して環境を変えたいという思いが強かった。都会にはない自然の中に身を置いて何が生まれるか試してみたかった」

 一種の転地療法である。 龍雲はライブ活動が中心であり、東京にいる必然性もあまりなかった。また、第1期に東京ではなく、地方=福岡で活動していた経験なども頭にあっただろう。沖縄生活は20年になる。気になるのは「台風が多いことくらい」と言う。それほど沖縄の地に溶け込んでいる。

 龍雲の母は琉球弧の奄美大島(鹿児島県)出身だ。沖縄移住は母への追慕もあったことは言うまでもない。

 「沖縄に住むことは必然であったとしか考えられない」

 龍雲は必然性を強調した。この地にたどり着く運命にあった。

 「沖縄の良いところはその人々の寛容さにある。重い歴史から排他的になるのではなくて、むしろ、あらゆる国の人たちと共存共栄して行ける根っからの包容力が誰をも住みやすくさせている」

 このように感受する沖縄は龍雲の歌の世界をさらに押し広げる地になる。

 (田代俊一郎)

=2019/02/25付 西日本新聞夕刊=

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