博多ロック編<197>那珂川を渡って

ステージで歌う山善=1974年、福岡市の明治生命ホールで
ステージで歌う山善=1974年、福岡市の明治生命ホールで
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 福岡市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」のマスター、田原裕介は自分の店をロックのレコード鑑賞だけの空間と考えていたわけではない。1971年にオープンして以来、いつもライブのことが頭にあった。

 「でも、現実にはライブをできるバンドはごく少なかった」

 その少ないバンドのうちこの店を拠点にしていたのは「サンハウス」「ブロークダウン・エンジン」「田舎者」などだ。これらのバンドは博多ロックの第1世代でくくられる。厳密に言うと「田舎者」は1・5世代といえるかもしれない。「サンハウス」のメンバーとは6、7歳下だった。

 「『サンハウス』の柴山(俊之)さんたちに金魚のフンのようについて回っていた」

 「田舎者」のボーカル、山部善次郎(通称・山善)はライブの中でこのように語ったことがある。

 山善は小学校時代から洋楽を聴いていた。警固中学時代にバンド活動をしようとした。

 「学校のPTA側から止められた。エレキ=不良という時代でしたからね」

 バンドを始めようと思ったのは「ビートルズだけでなくモンキーズの影響も大きかった」と言う。

 ようやく中学時代の音楽仲間と博多商業高校に入ってバンドを結成した。福岡市・天神のライブハウス「照和」のオーディションを受けた。山善の服装が田舎くさいことからメンバーがバンド名を「田舎者」と提案した。高校生バンドとしてローリングストーンズ、CCRなどのコピーを演奏していた。フォーク系の「照和」では異色のバンドでもあった。

 「照和」から「ぱわぁはうす」へ。那珂川を渡り福岡から博多へ向かったのは「サンハウス」への憧れだった。山善にとって本格的なブルース・ロックへと向かう橋だった。

   ×    ×

 山善は高校時代、ダンスホールに行き「サンハウス」の柴山にリクエストしたことがあった。グランド・ファンク・レイルロードの「孤独の叫び」。

 アニマルズのカバー曲だ。柴山は「おれたちはせん」とだけ言った。アニマルズの「孤独の叫び」をリクエストすれば柴山は応えたかもしれない。

 山善は「サンハウス」の拠点であった「ぱわぁはうす」にもバンド仲間と足を運んだ。

 「みな、瞑想(めいそう)するようにレコードを聴いていて怖いな、と思った」

 それでも山善にとって、この店は博多ロックの「神聖な場所」であり、ここで自分の力を試したいという若い健全な欲求を抑えきれなかった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/03/24付 西日本新聞夕刊=

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