【きょうのテーマ】大宰府政庁を守った「水城」 1350年前の巨大な土塁

大宰府展示館には大宰府政庁の模型もあった
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水城跡の緑(中央)は、たくさんの家や高速道路がある風景の中に残っている
水城跡の緑(中央)は、たくさんの家や高速道路がある風景の中に残っている
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広場になった大宰府政庁跡には、建物の柱を支えた礎石や石碑があった
広場になった大宰府政庁跡には、建物の柱を支えた礎石や石碑があった
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水城の資料やトイレがある観光案内施設「水城館」
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 ●古代のロマンを実感

 「だざいふ」と聞けば、学問の神様・菅原道真を祭る太宰府天満宮を思い浮かべる人が多いでしょう。でも、福岡県太宰府市には他にも歴史的に貴重なものがあります。その一つが国の特別史跡の「水城跡」です。関係が深い大宰府政庁跡と水城跡を、こども記者5人が取材しました。

【紙面PDF】きょうのテーマ=大宰府政庁を守った「水城」

 ■古代の役所があった

 こども記者は、まず地元の歴史資料がある大宰府展示館を訪ねた。大宰府史跡解説員、小沼秀人さん(70)が「『だざいふ』は天満宮だけじゃないよ。道真公が来る前から、古代の役所、大宰府政庁があったんだ」と教えてくれた。そこで、近くの政庁跡に行った。

 小沼さんによると、「昔は約千人の役人らが働き、九州を治め、中国などと外交をしていたそうだ」(荒木奎樹(けいじゅ)記者)。今は大きな広場になっていて、所々に「礎石」がある。建物の柱の下に置かれていた石だ。

 礎石には本物と偽物(復元したレプリカ)が交じっていた。「きれいな丸いものが偽物で、少し欠けているのが本物」と小沼さん。なぜ偽物があるかというと、途中で誰かが本物を持って行ってしまったからだという。西果凛記者は「石を持って行って、何をしたのだろう」と気になった。

 ■緑の帯が1・2キロも

 そんな大宰府政庁を守った巨大な土塁(土の堤防)が、約1350年前(西暦664年)に造られた水城だ。高さは平均9メートル、幅は約80メートル。「長さは1・2キロもあり、今は雑木林になっているが、元々は木がない土壁だった」(上杉里歌記者)。内側と外側には、それぞれ水をたたえた濠があったという。

 小沼さんに案内してもらって、山の途中にある展望台まで登った。とても暑くて汗だくになったが、展望台は見晴らしが良く、家々の向こうに水城跡の緑の帯が見えた。高速道路や鉄道で途切れた部分はあるが、緑は延々と続いていた。

 こども記者たちは古代のロマンを実感し、すがすがしい笑顔になった。

 ■大切に守り伝えて

 ところで、水城には「城」の字があるから、普通のお城のようなものだと勘違いしやすい。木原萌記者は「天守閣のある城だと想像し、まったく違っていたのでびっくりした」。

 西原優貴(ひろたか)記者が「なぜ1350年も前にできた水城が今も残っているのですか」と質問すると、小沼さんは優しく教えてくれた。「この辺りは長い間、田んぼや畑ばかりで、取り壊す必要がなかったんだよ」と。

 運良く残った貴重な遺跡を多くの人に知ってもらおうと、今年4月には観光案内施設「水城館」が開館。ボランティアらが案内役を買って出ている。こども記者たちは同館にも立ち寄り、「今後も水城を大切に残してほしい」と思った。

 ●水城、記録では1年で完成 史跡解説員の小沼さんに聞く

 こども記者たちは、疑問に思ったことを大宰府史跡解説員の小沼秀人さんに聞いた。

 -なぜ水城は造られた?

 小沼 663年に朝鮮半島であった白村江(はくそんこう)の戦いで、日本は新羅(朝鮮半島の国の一つ)と唐(中国)の連合軍に負けました。その後、九州に攻めてこられる心配があったので水城を造ったのです。

 -何年かかったの?

 小沼 記録には664年の1年で造ったように書いてあります。土木工学の先生によると、6千人が1日に11時間ずつ300日間ぶっ通しで働くと造れるだろう、ということです。

 -今の値段で何円くらいかかったの?

 小沼 当時の労働は全部ただ。労働が税でした。今なら、いくらかかるか、計算した人はいません。

 -「だざいふ」の表記は、昔は「大宰府」だったのに、今は「太宰府」。なぜ変わったの?

 小沼 奈良時代の資料を見ると、全部「大」の字です。「太」が最初に出てくるのは平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて。なぜかは分かりません。

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=2017/09/09付 西日本新聞朝刊=

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