【きょうのテーマ】水俣病に学ぶ私たちの宝物 患者さんが地元児童と交流

水俣病資料館から見た海はおだやかで、きれいだった
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 ●「命への感謝」 絶えぬ笑顔

 戦後、日本の工業が発展して生活が豊かになる中で、たくさんの人が犠牲になったことを知っていますか。工場の活動などで被害が出た「公害」です。63年前に熊本県水俣市で公式確認された水俣病は、特に被害が大きく「公害の原点」といわれます。こども記者が患者さんと地元の児童の交流などを取材しました。

【紙面PDF】きょうのテーマ=水俣病に学ぶ私たちの宝物

 九州新幹線の新水俣駅から歩いて5分ほど。こども記者たちが昨年12月8日に訪ねた水東小学校は、山沿いの小さな学校だった。校内に入ると、児童が「おはようございます」と元気よくあいさつをしてくれた。

 この日は、毎年1回ずつ10年以上続けている「水俣病患者さんとの交流会」が開かれた。講師は患者さんらが働く市内の小規模多機能事業所「ほっとはうす」から来た4人。全校児童50人が低学年と高学年に分かれ、質問したり、じゃんけんのゲームをしたりした。

 最初に、ほっとはうすの前施設長、加藤タケ子さん(68)が水俣病について説明した。原因は工場の廃水だったこと、廃水を止められず被害が拡大したことなどをやさしく語り、こう続けた。「たくさん悲しい出来事があったけれど、水俣病から教えられた宝物もあります。今日は、それを伝えるために来ました」

 一緒に来た患者さん3人はいずれも、母親が妊娠中に汚染された魚や貝を食べ、おなかの中で水俣病になった胎児性患者だった。

 ◇ ◇

 その一人、永本賢二さん(59)は「水東小学校だから、みんな水筒を持ってきたかな」と児童を笑わせた後、自分が幼児のころ三輪車に乗った写真を見せた。

 「みなさんは砂場で乗りましたか。ぼくは(足が不自由なので)残念ながら家の中で乗りました。ペダルをこげず、足をついていました」と言った。転んでけがをしないように、おばあさんが布団をしいていたことを「本当に感謝しています」とふり返った。

 松永幸一郎さん(55)は約10年前まではマウンテンバイクに乗れたが、足の痛みがひどくなって車いすを利用するようになったそうだ。水俣病をめぐる工場や国の対応が遅れたことをふまえて、児童たちに「間違えたり、失敗したりしたら、やめる勇気を持ってほしい」と訴えた。

 ◇ ◇

 電動車いすに乗って最後に登場した金子雄二さん(63)は、懸命に話してくれた。言葉は聞き取りにくかったが、好きなことを聞かれると「買い物」、外出するときに苦労しているのは「(道路などの)段差」と答えた。真剣な顔で聞く児童たちの「聞きたい心」と金子さんの「伝えたい心」が重なって、しっかりと伝わった。

 「伝えたい宝物って何ですか」。こう質問された永本さんは、「お母さんのおなかの中から生まれてきたことかな。生まれてこなかったら何もできませんでした」と答えた。加藤さんは「命への感謝ですね。みんなが今いることも宝物なんですよ」と児童たちに語りかけた。

 患者さんたちは交流会の間じゅう笑顔を絶やさず、楽しそうだった。最後に「ありがとう」とくり返し、「来年もまた来るよ」と言って、児童たちと握手やハイタッチをして別れた。

 ●こども記者に「水俣病伝えてほしい」 小規模多機能事業所「ほっとはうす」

 こども記者たちは、水東小での交流会を終えた患者さんたちと一緒に「ほっとはうす」に行った。木造の建物に入ると木のにおいがして、自分の家にいるような気がした。患者さんたちは他の障害者のみなさんとともに、ここで古新聞でエコバッグを作ったり、押し花でしおりを作ったり、水俣の海辺でとれた貝がらでストラップを作ったりして働いているそうだ。

 室内の壁に大きな絵が飾られていた=写真。建物が完成する前の2002年、患者さんたちが約50年の人生を振り返って描いたのだという。題名は「希望 未来 水俣」。絵の中には山があり、海があり、魚が泳ぎ、船も浮かんでいる。

 胎児性患者で車いすを使う加賀田清子さん(63)は、大好きなブルーのズボンをはいて立っている自分を描いた。「どうしてですか」と聞くと、加賀田さんは「もう1回歩けるようになって、仲間の車いすを押してあげたいから」と言った。絵には、描いた人の名前の頭文字も書かれていた。つなぎ合わせると「なかま」。患者さんは、苦しいときに助け合ってきた仲間をとても大切しているそうだ。

 加賀田さんは、こども記者たちに「水俣病のことを伝えてほしいから、子どもにも分かりやすい新聞を作ってください」と語りかけた。大場記者は「患者さんたちは水俣を大切にし、他の人への思いやりにあふれていた」と感動した。

 ●工場で発展した町…でも、命を奪ってはならない

 こども記者たちは、水俣の歴史を学ぶために水俣病資料館にも行った。副館長の草野徹也さん(50)が館内を案内してくれた=写真

 水俣は戦後、日本の高度経済成長を支えたチッソ水俣工場とともに発展した。工場の大きな写真の前で、草野さんは「工場で働く人は『会社行きさん』と言われ、あこがれの存在だった」と言った。地元の小学校の校歌にも工場が登場したほどだ。しかし、工場の廃水で海が汚され、死んだ魚が浮き、魚を食べたネコや鳥が苦しみながら死んだ。

 それらの写真とともに、手足が激しくけいれんする患者さんの映像もあった。工場で働く人は、廃水が原因かもしれないと思っても言えなかったそうだ。言えば、工場がつぶれてしまうと心配していたと知り、高田記者は複雑な気持ちになった。それでも「人の命を奪うことは絶対にあってはならない」と思った。

 今、水俣市は、水俣病を教訓にして、ごみを22種類にも分別して収集するなど、環境を大切にしている。だが、地元を離れたら差別されるのが怖くて「水俣出身です」と言えない人が少なくないという。草野さんは「いつか子どもたちが『水俣出身です』と胸を張って言えるようにしたい」と話した。それを聞いた石倉記者は、今回の取材で出会った人たちを思い浮かべ、「大きな声で『水俣はすてきな所です』と叫びたい」と強く思った。

 ●わキャッタ!メモ

 ▼水俣病 熊本県水俣市のチッソ水俣工場でビニールなどの原料を作るとき、毒性の強いメチル水銀が発生し、海に流された。これを取りこんだ魚や貝をたくさん食べた人が脳細胞や神経をこわされた。妊娠中の母親が食べ、おなかの赤ちゃんが胎児性水俣病になることもあった。症状は、手足がしびれ、目が見えるはんいがせまくなる、体の動きが自由にならないなど。熊本県と鹿児島県の認定患者数は約2300人。他に健康被害者は何万人にもおよぶとみられる。多くの人が亡くなり、今も苦しむ人が少なくない。

【紙面PDF】きょうのテーマ=水俣病に学ぶ私たちの宝物

=2019/01/15付 西日本新聞朝刊=

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