江戸の韓流 朝鮮通信使<1>鎖国下の日本が熱狂

写真を見る
朝鮮通信使の実現に奔走した初代対馬藩主宗義智(そうよしとし)の銅像。市民の寄付で今年3月に建立された=長崎県対馬市
朝鮮通信使の実現に奔走した初代対馬藩主宗義智(そうよしとし)の銅像。市民の寄付で今年3月に建立された=長崎県対馬市
写真を見る
朝鮮通信使行列絵巻(京都市・高麗美術館所蔵)
朝鮮通信使行列絵巻(京都市・高麗美術館所蔵)
写真を見る

 江戸時代の日本に「韓流ブーム」があったことを知っていますか? 朝鮮王朝の優れた書や絵画、珍しい踊りや曲芸に、鎖国下の日本の人々は熱狂しました。そのブームを引き起こしたのが、平和使節の「朝鮮通信使」です。今年3月、通信使の日記や絵画などの貴重な歴史資料が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に申請されました。通信使とは何だったのか-。九州に残る足跡をたどりながら、その姿を紹介しましょう。

 【衝撃】原色の行列、文化誇示

 朝鮮通信使は、鎖国政策を取っていた徳川幕府が、ほぼ唯一の例外として朝鮮王朝から招いていた外交使節です。この場合の「通信」とは「信(よしみ)(親しい交わり)を通い合わせる」という意味。徳川幕府成立直後の1607年から1811年にかけて、10~20年に1回程度、将軍が交代する時などに訪れました。

 一行は約500人の大行列。当時の朝鮮の首都漢城(ハンソン)(現ソウル)から江戸まで、海路と陸路で往来しました。朝鮮にとって自国文化をデモンストレーションする好機です。原色の衣装を着て、竜を描いた大きな旗を掲げ、楽隊の派手な演奏に合わせて各地を練り歩きました。

 海外の風物を目にすることがなかった江戸時代の庶民にとって、それがどれほどの「衝撃」だったか。大坂(現在の大阪)で見物した様子を記した「宝暦物語」(著者不明)によると、通信使の船が通る川岸には「近郷在住の老若男女その数幾千万」。ぎっしり埋まった見物客は「千体仏のごとく」とあります。

 中国の先進文化をいち早く吸収していた朝鮮は、漢詩や絵画、武士も重んじた朱子学や医学などの分野で日本に先行していました。庶民の見物とは別に、文化人や裕福な商人たちも通信使に殺到し、書をほしがったり、教えを求めたりしたそうです。

 「一生に2回見られれば幸運というほど、大変な人気だった」。通信使の最初の寄港地だった長崎県対馬市で国際交流を担当する阿比留正臣さん(48)は、人々の熱狂ぶりをそう語ります。対馬では今年も、8月の夏祭りの目玉として通信使行列が再現されます。

 【平和】ミニ使節、交流の礎に

 通信使の記録は「平和遺産」だと言われます。通信使が往来した約200年間、幕府と朝鮮の間に武力衝突はなく、少なくとも建前としては対等な関係を維持したからです。

 もちろん通信使だってきれい事ばかりではありません。「お互い裏にはドロドロした政治的思惑がありました。それでも、結果として平和を守った意義は大きい」。長崎県学芸文化課の主任学芸員、山口華代さん(38)はそう評価します。

 朝鮮にとって当時の日本は武士という軍人が支配する野蛮な小国。先進文化を伝え、教化してやるという優越意識がありました。一方、幕府は使節を迎えることで日本の支配者として権威を示したかった。通信使は「呼びつける」ものだから、幕府から使節を送ることもありませんでした。

 間で板挟みになったのが仲介役の対馬藩(現対馬市)でした。徳川家には「通信使を呼べ」と命じられ、朝鮮王朝には「まず家康から正式な招待状(国書)を送らせろ」と要求されます。悩んだ末に、なんと国書を偽造しました。

 また、対馬藩は現在の大使館に当たる倭館(わかん)を釜山に置き、朝鮮から「訳官使(やくかんし)」と呼ばれる使節を頻繁に招きました。100人程度の、いわば「ミニ通信使」です。訪問回数は12回の通信使よりずっと多く、51回に上りました。

 対馬藩は幕府の動向や通信使の準備について訳官使ときめ細かく協議。もてなしのため宿舎を建て、通り道に石垣まで築きました。今も残る美しい石垣を案内してくれた朝鮮通信使対馬顕彰事業会会長の小島武博さん(67)は語ります。「訳官使こそ交流の基礎。使節と仲良くした対馬の配慮で平和が保たれたのです」

=2016/07/26付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]