「尾張徳川家の至宝」展 妖刀 伝説から史実へ

家康は死してなお「神君」として徳川幕府を支えた。写真は愛用の甲冑(かっちゅう)「熊毛植黒糸威具足」(くまげうえくろいとおどしぐそく・桃山時代、16世紀)
家康は死してなお「神君」として徳川幕府を支えた。写真は愛用の甲冑(かっちゅう)「熊毛植黒糸威具足」(くまげうえくろいとおどしぐそく・桃山時代、16世紀)
写真を見る
家康の愛刀「銘 村正」(室町時代、16世紀・徳川美術館蔵)。皆焼(ひたつら)と呼ばれる独特の刃文が特徴で、村正の刀の中でも異色の逸品とされる。
家康の愛刀「銘 村正」(室町時代、16世紀・徳川美術館蔵)。皆焼(ひたつら)と呼ばれる独特の刃文が特徴で、村正の刀の中でも異色の逸品とされる。
写真を見る
有栖川宮熾仁親王の村正の脇差(室町時代、16世紀)。熾仁親王の死後、高松宮家に伝えられた(日本美術刀剣保存協会蔵・写真は部分)
有栖川宮熾仁親王の村正の脇差(室町時代、16世紀)。熾仁親王の死後、高松宮家に伝えられた(日本美術刀剣保存協会蔵・写真は部分)
写真を見る
天下統一の大成者となった家康。村正の刀の輝く切っ先に次の時代を見ていたのか
天下統一の大成者となった家康。村正の刀の輝く切っ先に次の時代を見ていたのか
写真を見る
徳川美術館には尾張徳川家由来の能・狂言面が約150点、装束が約400点収蔵され、多彩なコレクションを誇る。その優品が展覧会場に並ぶ
徳川美術館には尾張徳川家由来の能・狂言面が約150点、装束が約400点収蔵され、多彩なコレクションを誇る。その優品が展覧会場に並ぶ
写真を見る

 将軍家に次ぐ家格を誇った尾張徳川家伝来の大名道具を紹介する九州国立博物館(福岡県太宰府市)の「尾張徳川家の至宝」展は、後期展示に入り、12月8日の閉幕まで残り会期が2週間余りとなった。この特集では、展示の中から武士の魂ともいうべき刀と、教養娯楽としてたしなまれた能楽に焦点を当て、由来や伝説、武家文化の形成について紹介する。

 尾張徳川家に与えられた徳川家康(1542~1616)の遺品目録「駿府御分物御道具帳(すんぷおわけものおどうぐちょう)」では武士の魂である刀を記載した「御腰物之帳」を筆頭の「第一冊」とし、2点の村正を記載している。1点は明治期に手放され、残る1点が特別展で公開されている。

 村正は伊勢桑名(三重県桑名市)に数代続いた刀工。家康の刀は文亀年間(1501~04)ごろの作とされる。皆焼(ひたつら)と呼ばれる刀身の全面に散った刃文が強烈な印象を与え、鋭い造形と相まって異彩を放つ。

 この刀、延享年間(1744~48)作成の「御天守御腰物元帳」では「潰物(つぶしもの)になる筈(はず)。疵物(きずもの)にて用たちがたき」という奇妙なただし書きが付く。もちろん刀身に傷など無い。家康愛用の品と知りながらなぜ…。

 「名刀と日本人」などの著作で知られる佐野美術館(静岡県三島市)の渡邉妙子館長は「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測する。

 「徳川実紀」などによると家康の祖父、松平清康は村正で殺され、父、広忠も負傷したことがある。家康も関ケ原の戦いで功績があった武将の村正の槍(やり)を手にし指を傷つけた。織田信長の命で、長男信康が切腹したとき介錯(かいしゃく)した刀も村正であった。家康は「いかにして此作(こさく)の当家にさはる事かな」と村正をすべて捨てるように命じたという。

 「家康周辺の刃傷事件にたびたび村正が登場するのは不思議ではない」と渡邉館長。家康の国、三河(愛知県)は伊勢に近い。「徳川四天王」の本多忠勝の槍「蜻蛉切(とんぼきり)」も村正派の作だ。刃に当たったトンボが両断されたという逸話は、そのすさまじい切れ味を物語る。勇猛な三河武士はこぞって村正を求めた。

 家康が村正を手放さなかった事実から考えても妖刀伝説は根拠がない。その一方で、理論家で知られる学者の新井白石までが「村正は不吉の例少なからず」という記述を残している。伝説はあらゆる階層に深く、広く浸透していた。

 「伝説がこれほど広がった背景には諸国の幕府への強い不満があった」と渡邉館長は考える。幕府成立の過程で旧豊臣方の大名の多くが改易され領地を失い、参勤交代制度は各藩に大きな負担を強いた。一方、徳川家は召し上げた領地を天領として財政を潤し、権力を盤石にしていく。

 幕府に遺恨を持つ誰かが言った。「徳川家にたたる刀があるという」。妖刀伝説はこうして生まれたのかもしれない。

 死の直前、家康は「ソハヤノツルギ」と呼ばれる刀を久能山東照宮(静岡市)に奉納し「その切っ先を西へ向けておけ」と遺言。西国の敵対者を封じんとした。死後は神号「東照大権現」を贈られ「神君」として徳川家を守護した。しかし幕府は15代将軍慶喜の時代に大きく揺らぐ。薩摩、長州…家康が恐れた西から倒幕ののろしが上がった。

 作家の司馬遼太郎は「徳川家に仇(あだ)をなす者はことさら村正を帯びたという故実がある」とし、西郷隆盛の名を挙げている。渡邉館長によると「西郷よりも象徴的な人物が村正を帯びていました。それは…」。

 有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王。幕末の悲劇のヒロイン「皇女和宮(かずのみや)」の婚約者だ。

 熾仁親王と和宮内親王の婚約は、朝廷と幕府の一致協力を図る公武合体政策により、幕府側の強い意向で破棄され、内親王は14代将軍家茂に降嫁(こうか)した。

 「村正は親王が腰にするべき格の刀ではない。この刀は熾仁親王の幕府への複雑な胸中を映している」と渡邉館長。誰から手に入れた刀なのか。「薩摩の島津家は村正を集めていたといわれる。薩摩から贈られたものかもしれない」

 1868年、熾仁親王は志願して官軍の江戸城攻撃の旗頭、東征大総督となる。西郷らを従え東海道を下る道中、この村正を携えていたと渡邉館長は考える。

 村正は最後まで徳川家に仇をなしたのか。「熾仁親王は慶喜に恭順を勧め、無血開城を実現させた。親王の村正はむしろ徳川家と江戸の人々を守ったのでは」と渡邉館長はほほえんだ。

 光あるところに影がある。家康と徳川家が歴史の脚光を浴び続ける限り、妖刀伝説もまた付き従う。

 ●能の力 武芸に通じる

 江戸幕府が公式行事で演じる芸能「式楽」に定めたのが、能と平家琵琶と幸若舞だった。婚礼や当主の就任、官位昇任など主に祝いの席で演じられた。

 現存する最古の芸能と言われる能の源流は奈良時代にさかのぼる。大陸から渡来した歌謡や物まね、曲芸を含む「散楽(さんがく)」と農村の芸能から発展した「田楽」、密教的行法から生まれた「呪師(しゅし)芸」が影響しあい専門の一座が生まれた。諸座が芸を競うなか奈良の大和猿楽の座に観阿弥(1333~84)が登場し、歌舞的趣向を取り入れた。息子の世阿弥(1363?~1443?)は将軍足利義満の寵愛(ちょうあい)を受け、能を舞台芸術として確立する。その完成が約600年前のことだ。

 現在、能のシテ方(主役)の流儀は観世、宝生、金春、金剛、喜多の5流。江戸時代は武士の身分だった。大名家や寺社がパトロンとなり、高貴な人をもてなすために染織、工芸など当時の最高技術で優美な装束や面などの道具を作った。

 能楽師を恒常的に抱えたのは豊臣秀吉に始まる。茶の湯から能に関心が移った秀吉は自ら能を舞ったが、上手ではなかったらしい。徳川家康は三方ケ原の合戦(1572年)で武田信玄に大敗し浜松城に逃げ帰るが、付き従った七世観世太夫の宗節が家康を慰め「弓矢立合(ゆみやのたちあい)」を舞った。観世宗家は今も正月に「弓矢立合図」の掛け軸を床の間に飾るという。

 尾張徳川家では初代当主義直が金春流を、三代当主綱誠は宝生流と、当主によって関わる流派が異なった。

 大名家は家臣に能を奨励し盛んに上演した。その理由を並木昌史・徳川美術館学芸員は「中国の伝説や平家物語などに題材を得た能を習うことで、古典や和歌の素養を磨き、謡からきれいな日本語を学んだ。各地の寺社や名所旧跡も登場するため見聞も広められた」と説明する。

 中世の芸能、文学研究が専門の松岡心平・東京大大学院教授は能の原型とされ天下泰平、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する演目「翁」を例に挙げ、「能は演じて楽しいエンターテインメントであると同時に、呪術的、超越的な力を持ち、幕府や大名の統治を支えると考えられた」と見る。

 現在演じられる能の演目は約200曲。神の化身が現れたり、戦の罪で修羅道に落ちた武人の苦しみを描いたり、王朝物語の男女や異界からの来訪者が主人公となる曲などさまざまだ。事あらば戦に臨み、主君に忠誠を誓った武人たちはどんな感覚で能を舞ったのか。

 フランス現代思想が専門で、合気道師範の内田樹・神戸女学院大名誉教授は、中世の日本人と武芸者の身体運用の一致点を見定めようと、17年前から能の稽古を始めた。その体験を観世清和・二十六世観世宗家との近著「能はこんなに面白い!」(小学館)でも披露している。

 内田教授は「能は憑依(ひょうい)の芸能。簡単には呼べない力をおろし、人間の身体を媒介に外在化するもの」として、「己をむなしくして、外の刺激に最適な反応をすることで自然に型ができあがることに気づいた」と語る。その上で、剣術や居合を引き合いに「人間にできないはずのことがその場でできなければ武芸ではない。強大な自然の力を発動させ、制御できるように自らの体を整え、導管のように通す技能は武芸も能楽も同じです」。

 能も茶の湯も禅も、体の整え方は同じだと内田教授は話す。美を発現させる能は武芸と通じる-だからこそ見て、演じた武人から共感を得たのではないか。

 ●11月8日まで 九州国博

 御三家筆頭 尾張徳川家の至宝 12月8日まで、福岡県太宰府市の九州国立博物館。同館、福岡県、西日本新聞社、徳川美術館などの主催。入場料は一般1500円、高校・大学生1000円、小・中学生600円。月曜休館。問い合わせはNTTハローダイヤル=050(5542)8600。

=2013/11/21付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]