<7>通学路を走り続けて

高1の体育祭で、リレーのアンカーとして走る小鴨さん
高1の体育祭で、リレーのアンカーとして走る小鴨さん
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●バルセロナ五輪女子マラソン日本代表 小鴨 由水さん

 兵庫県明石市立大蔵中で充実した陸上生活を送った私は、市内の明石南高に進みました。自宅近くには父母の母校の明石高がありましたが、高校でも陸上をやると決めていた私は、市内で最もスポーツの盛んな高校を選んだのです。さほど受験勉強に苦しむこともなく、合格できました。

 陸上部の監督は中嶋修平先生。筑波大時代、陸上の日本学生対校選手権(インカレ)で瀬古利彦さんと走ったことが自慢でした。私が大蔵中2年の時、都道府県対抗女子駅伝予選会での走りを見て、「卒業したらうちにおいで」と声を掛けてくれていました。

 中嶋先生の指導法は、中学時代の荻野卓(たかし)先生とは正反対。優しくて、選手の自主性を尊重するタイプでした。私は戸惑いつつも、「練習量で勝とう」と目標を立てます。そこで、自宅から学校まで6キロの道のりを、教科書やノート、制服を詰め込んだリュックを背負い、走って往復したのです。雨の日はかっぱを着て、1日も休みませんでした。

 私の1日の練習量は相当な距離になりました。部活の朝練習で5キロ、放課後に15キロ、通学・帰宅時の自主練習で12キロ。合計何と32キロです。ところが、いくら頑張っても、記録はほとんど伸びません。800メートルに至っては、ベストタイムが2分16秒で中学時代と全く同じ。近畿大会にも進めず、帰宅途中の公園のベンチで深夜までぼーっと座っていたこともありました。

 陸上以外では一つだけ、忘れられない出来事が高2のバレンタインデーに起こりました。私は陸上部の規則である「男女交際禁止」を固く貫いていました。すると、そんな私に、1学年下の名も知らない女の子が「憧れています」とチョコをくれたのです。この話を母の祐子(さちこ)にすると、私のあまりの男っ気のなさに、頭を抱えましたが…。

 最後の高3の年は右膝を故障し、大会には出られませんでした。ここまで話せば、つらいことだけの高校時代だったようですが、今振り返れば、それも無駄ではなかったと思います。そもそも私は自発的に、中距離ではなく、マラソン向けの練習をしていたのですね。朝晩に重さ7~8キロのリュックを背負って長時間走れば、瞬発力は削られ、ストライドも伸びません。ですが、その分、持久力が付き、上下動の少ない安定したフォームが得られます。この下積みが、社会人になって2年目の大阪国際女子マラソンで花開くのです。

=2018/04/10付 西日本新聞朝刊=

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