「収入ゼロ」の日も…“流し”で歌い続ける男性 遠回りした夢、今だからこそ

居酒屋で客を盛り上げる「平成の流し」の小山健さん(左)とギターの若見篤志さん
居酒屋で客を盛り上げる「平成の流し」の小山健さん(左)とギターの若見篤志さん
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【人生まるよ】<4>

 夜の店がひしめき合う千葉県船橋市の歓楽街。焼き鳥の煙が漂い、仕事帰りの会社員でにぎわう居酒屋に、アコースティックギターの音色が響いた。「平成の『流し』ユニット、ナガシーズです! 一曲いかがでしょう」

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 「流し?」。身を乗り出した客に黒いステージ衣装の小山健さん(42)が手製の「メニュー」を差し出す。さそり座の女、北酒場、ラブ・ストーリーは突然に…。ラミネート加工された一枚紙の表裏に昭和歌謡や演歌、Jポップなど30曲ほどのタイトルが並ぶ。

 「じゃあこれ」。リクエストされたのは「勝手にしやがれ」。小山さんが、ギターの若見篤志さん(36)の演奏に合わせて喉を震わせる。伸びのある声がよく通る。客が手拍子を始めた。「俺は歌わん」と渋い顔だったスーツ姿の中年男性もしばらくすると立ち上がり、ジョッキをマイク代わりに目を閉じて、気持ちよさそうに歌い始めた。

 盛り場を回り、客の求めに応じて歌ったり伴奏したりする「流し」。カラオケが普及する前の1960年代頃まで各地で活躍し、北島三郎や五木ひろしも下積み時代に経験した。今はすっかり影を潜めたが、小山さんは6年前から船橋を拠点に活動を続ける。

    *   *

 音楽関係の専門学校に通っていた20歳のとき、古里、福岡県大野城市の祭りのカラオケ大会で準優勝。「それがテレビで取り上げられたりして」歌手を夢見て上京した。

 片っ端からオーディションに挑むが予選敗退が続く。ようやく優勝すると「デビューに費用がかかる」と詐欺まがいの要求を突きつけられた。暮らしを立てるためテレビの大道具の仕事に就いた。憧れの歌手が立つステージを裏方として設営し「いつかここに」と思いながらも仕事に追われる日々。夢から遠ざかったまま、10年が過ぎていた。

 「何のために東京に出てきたの」。ある日、結婚も考えていた彼女に言われてハッとした。会社を辞め、バイトしながら養成所に通い、「野風増(のふうぞ)」の作曲家山本寛之さんに師事して歌を学び直した。ライブの前座で歌ったりするようにはなったものの、やはり芽は出ず「歌手断念」が頻繁に頭をよぎるようになった。

 そんなとき、東日本大震災が起きた。千葉にも大きな被害を与え、船橋の街も暗く沈んだ。「歌で街を元気づけられないか」。思い出したのが「流し」だった。かつての宿場町、船橋は「流し小屋」と呼ばれる詰め所もあった土地柄。翌2012年、ギタリストを従え「ナガシーズ」を名乗るようになった。

    *   *

 営業は一晩2万円ほどで店と契約することもあれば、飛び込みの演奏もある。そのときの収入は客の「投げ銭」次第で、運がなければ「収入ゼロ」の日も。ましてや2人組、生計を立てるのは難しい。今は昼間、再開した大道具の仕事を個人で請け負って稼ぎながら夜や休日、街に出る。

 ある夜、寒い時季でもないのに年配の女性に「雪国」をリクエストされた。じっと聞き入っていたその人は曲が終わると涙をぬぐい「亡くなった主人がよく歌っていたの」とぽつりと漏らした。一つの歌をきっかけに見知らぬ人同士が仲良く飲み、名刺交換が始まる場面には毎回のように出合う。「一人一人に寄り添った生の歌だからこそ心に直接響くし、いろんな出会いのきっかけになる。それが面白さ」。レパートリーは約200曲。昨年は船橋市内全35駅の盛り場を巡って知名度も上がり、競輪場のイベントやラジオ番組にも呼ばれるようになった。2年前からは大野城里帰りライブを開いている。

 「夢破れてもいつでも帰ってこい」と南福岡駅から送り出してくれた父は、7年前に世を去った。テレビに出て「キャー」と騒がれるような、若い頃思い描いた姿にはほど遠い。「でも、テレビの画面の向こう側じゃない、今の形だからきっと、伝わることもあるはず」。ずいぶん遠回りしたけど、今は迷いなく歌える。


=2018/01/10付 西日本新聞朝刊=

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