女性、児童福祉の先覚者に光 福岡・遠賀町出身の官僚 高崎節子さん 終戦後の混乱期に奔走 小説で社会問題告発も

高崎節子さん=1955年撮影(福岡女子大同窓会提供)
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高崎節子さんの著作。ペンネームで出したものもある
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高崎節子さんの研究を続けている水口一志さん
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 ●忘れられた存在…郷土史家が発掘「生きざまに学んで」

 戦後の混乱期に外国人との間に生まれ「混血児」と呼ばれた子どもの苦境を告発するなど、子どもや女性の人権尊重と福祉の充実を訴えて奔走した労働省(現厚生労働省)官僚がいる。福岡県遠賀町出身の高崎節子さん(1910~73)。公務の枠を超えて文筆活動や講演、慈善活動を行い、新しい時代の女性の生き方を体現した。これまで存在はあまり知られていなかったが、同町の郷土史家、水口一志さん(56)が掘り起こし「生きざまから学ぶことは多い」と情報発信を続けている。

 高崎さんは幼少期を父の郷里の同町で過ごした。16歳で福岡県立女子専門学校(現福岡女子大)に入学。九州帝国大(現九大)聴講生として経済や労働問題を学んだ後、42~48年は福岡女学校(現福岡女学院)で教師を務めた。

 戦後発足した労働省は、婦人少年局の各都道府県室長を女性にする方針を打ち出し、九大教授から推されたのが高崎さんだった。48~64年に福岡、神奈川、東京の各室長などを経て、売春防止法を犯した女性たちの立ち直りを支える法務省東京婦人補導院の院長に就任。61歳で退職し、肝臓の病気で63歳で亡くなった。

 公務の傍ら、火野葦平ら文化人と交流。自らも小説や随筆、新聞寄稿などで社会問題を告発した。神奈川時代の隣家の女性が、占領軍兵士との間にできた子どもと2人で厳しい生活を送っていたことから、そうした子どもたちの支援を始めた。小説「混血児」(52年)は日本人からさげすまれ、さらに黒人の子か白人の子かで差別されながら施設で育つ子どもたちの姿を描写。翌年、奈良岡朋子さんらの主演で映画化された。戦災孤児や貧しい子どもの労働は「人身売買」(54年)に著した。

 現在、新聞の日曜日の夕刊が休みになっているのは、高崎さんの働き掛けが発端だ。新聞配達員を慰労する「新聞を配る少年の集い」の最中、配達のため会場を後にする子どもたちを見て心を痛め、業界団体や労働大臣に掛け合った。

   *    *

 ただ、こうした業績はおろか、高崎節子の名さえ地元でもほとんど知られていなかった。

 きっかけは6年前、水口さんが福岡県立図書館で手にした56年発行の「ふるさと人物記」の同町出身者の欄に〈高橋せつ〉という表記を見つけたことだった。紹介文は〈男をしのいで近ごろメッキリ売出しの労働省東京婦人少年室長〉。

 著作をたどって判明した正しい名前を、町立図書館や役場で尋ねても誰も聞いたことがないと言う。偶然、県立図書館の司書が松本清張と交流があった人物の中に名前があるのに気付き、調査が進み始めた。

 普段、高齢者施設で働いている水口さんは、休みのたびに著作や古い文献を読みあさり、東京や神奈川にも出向いて高崎さんの足跡をたどった。各地に親戚を訪ね、人となりを聞いた。

 水口さんが高崎さんの信念に触れたのは、建設会社勤務の夫と離婚したのが、47年5月3日の憲法施行日と分かったとき。「12年間の結婚生活に思うところがあったのだろう。男女平等を定めた憲法と共に、新しい人生を踏み出す覚悟だったと思う」

 福岡で室長を務めていた49年に執筆者の一人として記した西日本新聞社刊「勤労婦人読本」にはこうある。〈働く婦人は民主化の象徴〉〈妻も子も使用人も夫の奴隷ではないのです〉。女性の経済的自立が生き方の解放につながると、労働条件改善にも取り組んだ。

 水口さんは埋もれていた高崎さんの功績を知ってほしいと2017年、女性団体が手掛けた冊子「福岡 女たちの戦後」に寄稿。松本清張記念館、遠賀町立図書館、福岡女子大などで講演してきた。

 そのかいあって昨年8月、同町広報紙の表紙を高崎さんの肖像写真が飾り、6ページ特集が掲載された。同大は、23年に迎える創立100周年記念事業として、初代同窓会長でもあった高崎さんの生涯を紹介する展示を企画中だ。

=2019/02/13付 西日本新聞朝刊=

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