恋した少女に命救われ

写真を見る

佐賀県唐津市 浜田満男さん(89)

 安保関連法案に反対する国会周辺のデモをニュースで見ると、労働組合員として安保闘争に参加した半世紀ほど前を思い出します。当時、学生に原爆について話しても、彼らは目の前のことで頭がいっぱいなのか聞いてもらえなかった。仕事場でも被爆者と分かると「放射能がうつる」と言われました。でも、被爆者であることを隠しはしなかった。

 〈佐賀県北山村(現佐賀市)で生まれた。原爆が長崎市に投下されたときは19歳。同市の三菱兵器製作所大橋工場に勤務していた。そのころ、言葉を交わしていた、当時の長崎高女生がいた。学徒動員で働きに来ていた〉

 彼女は二つ下で、「道子」といいました。仕事場を通りかかったとき、私が切ったパイプで滑って転んだのが縁で話すようになっていました。切れ長の目。浅黒い肌に白い歯がまぶしく、「長女報国隊」と書いた鉢巻き姿がりりしかった。きょうだいでも一緒に外を歩くと警官に怒られるような時代。周りに気づかれないように文通し、彼女が通りそうな時間、場所で待って一言、二言話すのが楽しみでした。

 〈1945年8月9日。空襲警報が解除され仕事が再開された直後、上空で原爆がさく裂。爆風に吹き飛ばされて失神した〉

 警報解除で防空壕(ごう)から戻る道子さんに声を掛けて別れた後でした。気づいたのは諫早(長崎県)の女学校の講堂。負傷者が大勢寝かされていましたが、どうやって運ばれたのか、頭がぼうっとしていました。隣で寝ている人の鼻からハエが出てくると、「ああ死んだんだ」と分かりました。

 2日後、そこを抜け出して彼女を捜しに長崎に行きました。半裸で焼けただれた遺体がたくさんあり、この世の終わりを見る思いだった。爆心地近くの私の下宿は跡形もない。彼女の手がかりも捜せず、古里に帰るしかありませんでした。

 〈実家で療養し、48年に長崎市に戻った。職場は鍋やフライパンの工場に変わっており、そこで働いた〉

 体調不良で7月、診療所に行き道子さんの入院を聞きました。見舞って初めて、彼女が命の恩人と知らされた。道子さんは壕に落ちてうめいていた私を見つけ、炎が迫る中を連れ出してくれていたのです。貧血があるそうで、色がすっかり白くなっていました。

 9月中旬、病室に行くと、ひどく衰弱していました。「もう駄目みたい。いろいろ世話になったわねえ」と告げられ、何も言えず、ただ首を左右に振り続けました。差し伸べられた手を両手で包むと、初めて握る手は冷たかった。彼女は言いました。「生きていたい。死にたくない」

 〈2日後、訃報が届く。何も手につかなかった。年末、東京に転勤になった〉

 悲しくて、忘れようとしました。組合活動にも没頭した。でも忘れられるわけなんてありませんでした。

 〈兄の紹介で結婚したのは67年。42歳になっていた。妻の故郷、佐賀県唐津市で原子力発電所の仕事もする会社に入った。2011年3月の東京電力福島第1原発事故まで、原発は核の平和利用と信じていた。同市では、誘われて原爆被害者の会に入った〉

 退職後、原発事故が起き、安全神話に初めて疑問を持ちました。それで反原発の署名運動にも取り組みました。原爆被害者の会では役員もやりましたが、みんな高齢になって活動も形ばかりになってしまったように感じて退きました。今は時々、小学校に被爆体験を話しに行っています。被爆体験を話せる人が少なくなる中、子どもたちに、何とか原爆のことを知ってほしいと願うからです。

 道子さんは地下室にいて無傷でしたが、戦争が終わって3年後に亡くなった。放射能にむしばまれてかわいそうでした。花も実もある子だったのに。

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]