遺体焼いた手の感触 今も

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福岡市城南区 熊谷龍生さん(87)

 腕を握ると、腐敗が進んだ皮が抜けるようにはがれたんです。死体を焼くために持ち上げて工場の外に運び出すにはね、残った服やズボンの裾を仲間とつかむしかなかった。その手の感覚が、今でも残ってる。

 〈1945年5月、海軍特別幹部練習生として相浦海兵団(長崎県佐世保市)に志願入隊。当時17歳。原爆投下直後の長崎市に8月15日、特別救援隊員として入った。主な仕事は遺体を焼くことだった〉

 そこは兵器製造の軍需工場でした。学徒動員で集められた15歳ぐらいの子どもたちが、折り重なっていた。自分の服に染み付いた死者の脂と血のにおい、そして腐臭。それを思い出すとね、しばらく食事がのどを通らなかった。何度もね、夢に出て、うなされた。

 薬は皮膚の炎症に使う白いチンク油(脂剤)しかなかった。そんな薬ではどうもできない。救護所に運び込まれた被爆者は次々と命を落としていった。何で遺体を焼くようなつらい作業ができたのかって。ただ上官の命令を聞くのが当たり前の毎日。感情を失っていたんでしょうかね。

 〈8月29日、長崎市から福岡県朝倉市の実家に帰宅した。脱毛、血便、発熱などの症状で約40日間入院。その後、大病もせず福岡県職員をまっとうした〉

 被爆が、生まれる子どもに影響しないか心配しましたし、被爆者健康手帳は1966年に受け取りました。ただ、長崎の記憶は意識しないようになりました。忘れたい気持ちが強かったからでしょうか。長崎を再訪したのはそれから39年後。結婚30年の記念旅行でした。

 俺も被爆者だって、本気で向き合い始めたのは退職後。福岡市原爆被害者の会で、被爆者援護問題に取り組んでいる人たちに出会ったから。自分も何かしなきゃ、と気づかされました。

 〈90年入会の同会で129人の被爆体験を集めた被爆50年記念誌を編集。それを機に語り部になった〉

 語り部は今約20人だが、私が最年長者。後継者づくりは、なかなか進まない。福岡市は被爆者が多いのに、被爆地と違って原爆への関心が低い。ただ、活動に参加してくれる大学生に出会えたことはありがたい。

 〈長崎市で見た地獄絵を伝えるだけでなく、日本人がアジア諸国で行った加害の歴史も話している〉

 日本の加害責任について、子どもたちはよく理解してくれる。難聴になり、耳が聞こえづらくなりましたが、目が見えなくなっても、車いす生活になっても、誰かに手を引いてもらえれば、どこにだって、話しに行きます。語ることは、残された人生で一番やるべきことだと思ってますから。

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