疎開、沖縄の悲劇 命懸け九州目指す

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九州に向かう途中、沈没した対馬丸(日本郵船歴史博物館提供)
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 こんな絶望の七夕があっただろうか。太平洋戦争末期の1944年7月7日、サイパン島が陥落した。それはやがて現実となる、米軍の沖縄上陸、本土空襲の激化を意味した。知るはずもない沖縄の子どもたちはあの日、短冊にどんな願いをつづったのだろう。

 慌ただしい動きが緊迫を物語っている。同夜の緊急閣議で、沖縄から本土に8万人、台湾に2万人の「老幼婦女子」の疎開方針を決定。沖縄から九州へ、旧国民学校の児童らを対象にした「学童集団疎開」の準備も7月中旬から始まった。

 沖縄から九州へ、初めての疎開学童約130人が鹿児島に到着したのは8月16日。学童集団疎開は8月から2カ月間に集中実施され、計約6千人の学童、引率教員らを九州に移送。宮崎、熊本、大分の3県に分散疎開した。一般疎開は翌年3月まで続く。

 家族で沖縄に残るか、子どもたちだけでも九州に疎開させるか。子どもたちは無事に九州までたどり着けるのか。沖縄の人たちは苦悩する。それは「地獄の選択」だった。終戦へと向かう翌年の七夕、沖縄は焦土と化していた。

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 沖縄から九州に向かう疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷を受け、トカラ列島・悪石島沖で沈没したのは44年8月22日。学童780人を含む1485人が犠牲となり、「対馬丸の悲劇」として語り継がれる。(沖縄から九州への学童疎開先と人数の拡大イメージはこちら)


 実はこのとき、対馬丸は、同じ疎開船「和浦(かずうら)丸」「暁空(ぎょうくう)丸」の計3隻(護衛艦艇2隻随伴)で九州に向かっていた。そのことを知る人は少ない。

 学童や教員計約3千人を乗せた僚船2隻は、魚雷攻撃を回避するため、全速力のジグザグ航行を繰り返し、長崎港にたどり着く。一行は、熊本県などに疎開するが、それは苦難の始まりでしかなかった。

 「ヤーサン(ひもじいよ)、ヒーサン(寒いよ)、シカラーサン(親元を離れて寂しいよ)」

 疎開した学童たちの戦時体験は、そんな言葉で語り継がれる。終戦を迎え、学童らは46年12月までに沖縄に戻るが、一家全滅も少なくなかった。

 「対馬丸の悲劇」は、疎開を奨励する国が箝口(かんこう)令を敷き、乗船者の多くが死亡したため、戦時中は公にならなかった。証言をつなぎ、実相をあぶり出す動きが本格化するのは戦後しばらくしてから。九州に疎開して戦後、沖縄に戻った学童や教員たちも、生き残ったことへの悔恨など、複雑な感情を抱え、この70年を生きてきた。

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 ひめゆり学徒隊が勤務していた旧日本陸軍病院があった南風原(はえばる)町(沖縄県)。沖縄慰霊の日(6月23日)を前にした6月2日、町内の小学校では九州に学童集団疎開した2人の男性を講師に招き、4年生2クラス合同の「平和授業」に取り組んでいた。

 一帯は戦中、米軍の猛攻に追い詰められ、壕(ごう)やガマ(洞窟)での集団自決が相次いだ。平和学習ではこれまで、地域の壕などをめぐり、証言に耳を傾け、戦争と平和を考える学習を続けてきた。「学童集団疎開」を主テーマに授業に取り組むようになったのは、5年ほど前からだ。

 「地上戦」も「学童集団疎開」も、民間人を巻き込み、家族を分断する戦争の罪を私たちに訴える。だが、地域に刻まれた地上戦の歴史は根深く、限られたカリキュラムの中で学童疎開の学びにまで到達するのは容易ではなかったようだ。

 地上戦の歴史、戦後の在日米軍基地負担などをめぐり、「沖縄の痛み」という言葉がよく使われる。だが、私たち九州は当時、沖縄の子どもたちをどう受け入れたのだろうか。その後の人生を含め、沖縄の心をどれだけ理解しようとしたか。戦後70年、節目の年に考えさせられる。

 沖縄から九州、台湾へと、計約7万9千人の民族大移動を強いた戦争。あのころ子どもだった人たちには、どんな記憶が刻まれているのか。複眼の視点から考えてみる。

集団疎開、全国で46万人

 太平洋戦争末期、空襲などに備えて、国策として旧国民学校(今の小学校)の学童たちは地方へ集団で移り住んだ。全国では約46万人の子どもたちが集団疎開したとされる。親類などを頼って移住する一般(縁故)疎開と区別される。

 沖縄から九州への学童集団疎開は、3~6年生の男子が対象だったが、実際は女子、低学年、高等科(今の中学生)も疎開した。学童40人あたり教員1人が引率し、引率教員は家族を同伴できた。

 本土の学童疎開では、月約30円の生活費の3分の1が保護所負担だったが、沖縄からの学童疎開では必要経費は全額、県が負担し、疎開を奨励した。


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