連載「玄界島の10年」(上) スピード復興の陰で

西日本新聞

タオルを使った体操を楽しむ高齢者たち=福岡市西区玄界島 拡大

タオルを使った体操を楽しむ高齢者たち=福岡市西区玄界島

 渡船が玄界島に近づくと、山の斜面に新興住宅地のような光景が広がる。2005年3月20日の福岡沖地震で大きな被害が出た島は、わずか3年で希望者約530人が全員帰島を果たし「復興のモデルケース」といわれる。東日本大震災の被災地からも視察が相次ぐ。だが島を見つめる自治会長の上田永(ながし)さん(84)の表情はさえない。4年前の出来事が忘れられない。

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 11年、島で高齢者の孤独死が2件続いた。11月下旬の寒い日には県営住宅の一室で、1人暮らしの80代女性が誰にもみとられずに亡くなった。約束の午前中に部屋を訪ねたケアマネジャーが、呼び鈴に反応がないため、合鍵を持つ島内の親族に連絡して見つかった。

 女性はパジャマから部屋着に着替えていた。死後数時間たっていた。前日は福岡市街地の病院に行き、変わった様子はなかったという。死因ははっきりしなかった。親族の一人は「せめて早めに見つかって良かった」と、うつむいた。

 マダイ、アジ、イカ…。一年を通して海の幸に恵まれ、島民の多くは同じ漁業をなりわいに暮らしてきた。かつては2世代、3世代同居が当たり前で肩を寄せ合うように家々が密集し、隣家の庭を通らないと自宅に出入りできないほどだった。「昔は孤独死なんて考えられなかった。島の人情が薄れている」

 上田さんはつぶやいた。

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 スピード復興をもたらしたのは、長年島民が培ってきた強い団結力だった。

 地震から2カ月後の島民総会で、早期復興や防災上の観点から、個別再建ではなく、傾斜地の家屋をすべて解体し住宅街を一体的に新設する方針が示された。被害の少ない新築や先祖伝来の土地を失うことに反発もあったが、たった1回の会合でほぼ合意に至った。「自分のことより島全体を優先する熱意があった」と、上田さんは懐かしむ。

 意向調査に基づき、一戸建て47戸、集合住宅115戸が整備された。国の補助を含め総事業費は71億円に上った。斜面に整然と新しい住宅が並び、細い路地は車が離合できる舗装道路になり、急斜面を上がるエレベーターもできた。

 一方で、親と子の家族が集合住宅で分かれて暮らすケースが増えた。空調が完備された家からは、人が出てこなくなった。近所づきあいが減り、夏に港近くで夕涼みする姿も見られなくなった。孤独死は、そんな中で起きた。長男家族と一緒だった上田さんも、今は県営住宅に1人、暮らす。

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 地震前に700人だった島の人口は、漁業が振るわず、この10年で若者を中心に約200人減少した。

 島を歩くと、昔のにぎわいをほうふつさせる場所があった。10年12月に開所した島内初の介護施設内だ。月1回の体操教室で、高齢者約20人がタオルを使った体操を楽しんでいた。「ここで昔話をするのが楽しい」。井上ツヂ子さん(89)は満面に笑みを浮かべた。

 施設の名前は「がんぎだん」。復興事業でなくなった、島の急斜面を上る細い階段を指す島言葉だ。

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 福岡沖地震で島の約7割の住宅が全半壊しながら、いち早く復興を遂げた玄界島(福岡市西区)の今を訪ねた。

=2015/03/20付 西日本新聞朝刊=

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